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平田伸行
ハナマルキ株式会社  
取締役 マーケティング部長 兼 広報宣伝室長
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or自由に国境を越えて世界を旅し、必要になれば国の保障を受けられる。私たち日本人が当たり前に享受する豊かな生活を叶えているもののの一つに、「国籍」という身分の証明がある。
タイとミャンマーの国境付近にある「虹の学校」は、国籍を持たない子どもたちのための学び舎だ。政治や経済、人権、貧困など複雑な問題が絡み合う境遇にいる人々は、通常十分な就学の機会が得られない。そのままでは人生の選択肢が著しく制限されてしまう子どもたちを受け入れ、基礎的な教養とともに生きる力を育むオルタナティブ教育を実践、さらに将来の国籍取得までをサポートしている。
そんな活動に人生を捧げる片岡朋子校長は、かつては日本で働く平凡なOLだったという。安定志向で挑戦とは無縁の人生から、一念発起して夢を追いかけた過去がある。2023年1月には、タイ王国社会開発・人間安全保障省から社会貢献賞を受賞するなど、異国の地で活躍する現在に至るまで、いかに自分と向き合い、ビジョンを描いてきたのか。前後編からなるインタビューで伺った。
▼前編(本記事)
タイ国境の学校に、人生を捧げる仕事は見つかった / 虹の学校・校長インタビュー
▼後編
誰でもできるソーシャルグッドな人生の始め方 / 虹の学校・校長インタビュー
──「教師になりたい」という思いは、小さい頃からあったものだとお聞きしています。当時は将来についてどのように考えていたのでしょうか?
両親が体育教師だったので、教師という仕事はすごく身近で親しみがあるものだったんです。でも、自分は何の教科が得意かと考えるとあまり分からず、当時は自信がなくて……。どの教科も満遍なく点数を取れていたのですが、特にこれが好きだとか興味があるというものがなかったんですよね。ただ、しいて挙げるなら図工や音楽、体育など基本5教科以外、答えのない勉強が好きだったことは今でも覚えています。
──片岡さんの場合、「教師」という仕事のどんな部分に魅力を感じていたのですか?
今振り返ればですけども、両親の場合は体育教師なのでスポーツの楽しさを子どもたちに伝え、それにより子どもたちの能力を引き出していく部分がいいなと思えていたように感じます。しかも、両親は本当に体を動かすことが好きだったので、それを職業にしている点もやはりいいなという風に思いました。
片岡朋子
栃木県出身。慶應義塾大学卒業後、会社員として働いたのち2006年にタイへ渡る。バンコク郊外の私立学校で日本語教師を4年半勤め、2010年より虹の学校・校長に着任。10年以上の年月を虹の学校と共に歩む。現在、夫・子ども2人と共にサンクラブリーで生活。2023年、タイ王国社会開発・人間安全保障省より社会貢献賞を受賞。
──いわゆる「『好き』を仕事に」を体現されていたご両親だったのですね。タイでは当初、日本語教師として働かれていたそうですが、その選択肢とはどのように出会ったのですか?
日本語教師という職業を知ったのは、高校生の時です。やはりみんな大学受験前に何を目指すかをどんどん調べていく時期だったので、自分も「海外で働ける仕事」などを探していて。周りには外交官だとか、お医者さんだとかを目指す人がいて、私も本当は何になりたいんだろうかと考えつつ、漠然とやはり外交官とかなのかなと思っていた時に、日本語教師というものが目に入り、「あぁなるほど、海外で働くこういう仕事もあるんだ」と見つけたという感じですね。
海外へ意識が向いていたのは、当時高校に米国やカナダから留学生が来ていて仲良くなっていたので、外国人と接することや英語でやり取りができることを楽しんでいたからかと思います。
大学では少し別の方向へと興味関心が移っていたのですが、その後のOL時代に大失恋をして人生のどん底を経験したんです。それをきっかけに改めて人生を見つめ直し、自分は日本語教師をやってみたいと思っていたんだと思い出し、もう一度目指しはじめたという経緯です。
──いざ日本語教師になろうとした際、タイという国を選んだのはなぜだったのですか?
大きく理由は二つありました。一つはOL時代に渋谷や新宿、池袋とかのタイ料理屋さんによく足を運んでいたんですよ。一人でふらっと何度も行くほどタイ料理が好きで。あとは、そこで働くタイ人の店員さんが無口でありながらすごく穏やかで謙虚な方で、タイに対する良いイメージがあったことが、まず一つ目の理由としてありました。
それから人生を見つめ直していく過程で、ある種すごく心の拠り所を求めていたわけなんですけども、仏教の説法について学ぶ機会があったんですよ。それまで全く興味はなかったのですが、こうやって仏教は何千年ものあいだ人々の心を救っていたんだということにすごく感動をして、仏教を学んでみたいなと思って。タイは仏教国なので何かしら学べるだろうという風に思って、もうタイしかないなと考えていました。
タイの街並みと学生たち
──実際にタイで働きはじめて、いかがでしたか?
もう今思い起こしても、タイは思った通りすごく自分に合っていた国だと思います。食べ物も合っているし、果物がたくさんあるし、人もみんな優しくおおらかな人が多いので、とてもいい国だなと思います。仏教についてももちろん学ぶことができました。
──「微笑みの国」とも呼ばれるように、優しくおおらかな方が多いというタイの国民性は、どこから来るものだと思われますか?
そうですね、やはり仏教の力はすごく大きいんじゃないかとは思っています。徳を積むことで生まれ変わっても良い人生を送れると、いわゆる輪廻転生をみなさん信じていますし、この人生でどれだけ徳を積めるかということを意識されています。
あとは、みんなが家族のように助け合う文化が根付いています。自分よりも年下の人を弟・妹という意味で呼ぶ「ノーン」という言葉があり、年上の人は兄・姉という意味で呼ぶ「ピー」という言葉がありますので、名前が分からなくても兄弟や家族になれたりする。そういうところからタイの方は他人ではなく、みんなが兄弟であり家族であるというような感覚がすごく強いと思います。だから、外国の方にも親切にできるんじゃないかなと。
──虹の学校との出会いは、どのようなものだったのでしょうか?
高知県にある高法寺というお寺の住職である玉城秀大さんという方が、虹の学校の創立者なんですけども、玉城さんとは日本語教師をしている時に出会っていて。虹の学校を始めて2年ぐらいはタイ人の方と運営されていて、うまくやりたいことが実現できなかったということで日本人を探されていたと。私はもともと知り合いだったので声をかけてくださって、私もすごく自分のやってみたいこととフィットしていたので引き受けたという経緯です。
──具体的にどんな部分がフィットしていたのですか?
お話をいただいた際、玉城さんが見せてくれたのが「ヨコミネ式教育法」のDVDだったんですよ。「ヨコミネ式」は当時すごく有名になっていた幼児教育で、体育や音楽、そろばんなどの学習を通じて子どもたちの能力を引き出すんです。そこでは子どもたちが本当に活き活きと学んでいて、私もこんな風に子どもたちの能力や才能を引き出せる人になりたいとすごく思って。しかも、私は体操もそろばんもピアノもやっていたので教えられる、もしかして自分だったらできるのではないかと思えたことが、教育面の理由として一つありました。
虹の学校 理事長・高法寺 住職である玉城秀大氏
あとは、玉城さんが掲げるコンセプトとして「自然の中で循環する生き方をする」というものがあって。私自身バンコクで暮らしていた時は、自分が持続可能な生き方ができていないことへの葛藤やフラストレーションがすごくあったんですよ。
というのも日本語教師をしていた時にいろいろ本を読んでいで、そのなかでネイティブアメリカンの生き方というものに出会ったのですが、ネイティブアメリカンは7世代先のことを考えながら生きていると、そういう思想があるということを知り、すごく感動してしてしまって。あぁそういう方がいるんだ、自分もそんな風に生きられたらいいなと思っていたんです。
それにはどうすればいいだろうかと考えると、現代においてはなかなか難しいかもしれないんですけども、それでも何かしらできることはあるはずだと。それを頭に入れながら生きるのと、全く考えずに自己本位で生きてしまうのでは違うだろうと思うので、私はそれを意識しながら自然への負担を最小限にしつつ、人間も自然も長く生きられるようにしたい。そんな持続可能な生き方を、自然の中で子どもたちと一から創りあげられる。そういったビジョンが、すごく生活面としてもやりたいと思えるものだったんです。
──OL時代、日本語教師時代と比べ、現在の仕事に対する誇りややりがいといった感覚は変化していますか?
それぞれのフェーズでやりがいや満足感はあったんですけども、今やっている仕事は自分の能力を全て活かして、さらに自分にしかできないというか、自分だからこそできる仕事だという誇りや納得感はすごく大きくあると感じています。
たとえば、日本語教師であれば資格があればできますし、私が働いていたところはお金持ちの人が通う学校だったので、お給料など待遇も良かったですし、不自由なくやれたわけです。なので、きっと私ではなくでもそこで落ち着いて働ける人はいると思うんです。
一方で、今の仕事は人の命や人生にかかわる責任重大な仕事ですし、教育も運営も経営も全て幅広くやらなくてはならないという難しい仕事でもあるので、そこでまず忍耐力というか、やり遂げようという意志の強さを持てる人はなかなかいないのではないかと思っています。
──いわゆる自分探しの旅などをするため海外に行き、答えが出ないまま帰ってくる人も多いという印象です。片岡さんの場合、ある種その答えが見つかったのはなぜだったと思われますか?
私も日本語教師をしていた時などは「このままでいいのか」という葛藤があって、いろいろな本を読んでいて。たしか本田健さんの本に従って、自分の人生設計を絵に描いたりしていたんですよ。
その時に私が描いたものの一つに、「良い学校の良い先生になる」という漠然とした思いがあって。それ以外にも自分で自分の食べ物を作るとか、当時書いて今は叶っていることも結構多いですし、そのあとに虹の学校の話をいただいたりもしたので、漠然とはしていたけれど書き出してビジョン化していたことは大きいのかなと、今振り返ると思います。
日本語教師時代
あとは本で言うと、タイに来る前、最初に自分の人生を振り返るきっかけになったのは藤原正彦先生の『国家の品格』という本ですね。どん底に落ちて、藁をもすがる思いでいろいろ探していた時に出会った本で、すごく私は感化されて、全てが変わったと言ってもいいくらい、今でも大事にしている本です。
内容としては「日本人は素晴らしい精神性と能力を持っているので、今こそ日本人は社会を良くするために立ち上がるべきだよ」ということなどが書かれていて、それを読んで「あぁ、自分は日本人という恵まれた立場に生まれたのだから、もっと頑張らないといけないな」とすごく思わされましたね。
──自分の人生を見つめ直し、社会の中の自分という存在を俯瞰するようになっていたからこそ、本の中に生き方の指針を強く求め、それらが繋がっていったのでしょうか。
そうですね、今まであまり世界の中の自分というものをあまり考えていなかった、すごく狭い世界で自分だけとか、誰かの他力本願で生きてきた。誰かがやってくれるだろうという気持ちですよね。自分がやらなくても誰かがやってくれれば平和になるだろうという、そういう気持ちだったのですが、やはり一度どん底を経験して以降、自分もやれる、やらなくてはと思っていたからこそ、本を読んで気づかされたように思います。
──今、片岡さんにとって仕事とはどんな存在ですか?また、人生の幸せはどんな瞬間にあると感じられますか?
虹の学校は、本当に私の人生そのものというか、毎日が虹の学校とともにあるので、もう仕事とプライベートは分かれていないんですね。なので仕事=人生であり、自分のやりたいビジョンを実現するための手段という感じですね。
昔は自分がのんびり安心して過ごせることや安定を幸せだと感じていましたが、今はやはり自分が教育者として、子どもたちがどういう風に成長していくか、成長を見られた瞬間にすごく喜びを感じますし、自分がやっていることに意味があると思えた時に幸せを感じます。(後編へ続く)
虹の学校・自然の中の授業風景
POINT ・ 先人が記した本を読み、心動かされる生き方を見つける・ 自分にしかできないという使命感が、仕事への誇りや満足に繋がる |
2024.5.14
文・引田有佳/Focus On編集部
▼前編(本記事)
タイ国境の学校に、人生を捧げる仕事は見つかった / 虹の学校・校長インタビュー
▼後編
誰でもできるソーシャルグッドな人生の始め方 / 虹の学校・校長インタビュー
片岡朋子
虹の学校 校長
栃木県出身。慶應義塾大学卒業後、会社員として働いたのち2006年にタイへ渡る。バンコク郊外の私立学校で日本語教師として4年半勤め、2010年より虹の学校・校長に着任。10年以上の年月を虹の学校と共に歩む。現在、夫・子ども2人と共にサンクラブリーで生活。2023年、タイ王国社会開発・人間安全保障省より社会貢献賞を受賞。
https://www.rainbowschoolthailand.com/ja/main/
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