目次

世界中の心から国境をなくしていきたい ― 人生の可能性はいつだって枠組みを取り外すことで生まれる

違う価値観を知り、理解する。広がっていく選択肢が、あなたの人生を豊かにする。


旅を通じて人びとの心から国境をなくすことをミッションに、旅体験をログブック(旅行記)としてコレクション・共有したり、旅行プランを作成できるサービス「Compathy(コンパシー)」を展開する株式会社ワンダーラスト。運営する旅マガジン「Compathy Magazine」(日本語、英語、中国語版)との合計月間利用者数(MAU)は約300万にも達し、2017年にはシリーズAラウンドで1億3000万円を調達した。Incubate Camp 5thから輩出され、2013年6月に設立された同社。日本IBMにて経営コンサルタントとして従事しながら、200名以上の海外旅行者を自宅にホストし、訪日外国人向けのNPO法人立上げなどを経て同社を起業した、代表取締役の堀江健太郎が語る「枠が外れることの価値」とは。




プロローグ


実家から車で少し遠い場所へ。三浦海岸では魚を釣って、秩父の山ではキャンプをした。冬はスキー、夏は海水浴。両親は、幼い自分と弟を随分いろんなところに連れて行ってくれた。


おかげで学んだことがある。


季節によって、見違えるように色を変える自然を知った。見知らぬ町の景色は、同じように見えて、一つとして同じものはないことも。


世の中には自分が知らない場所がたくさんある。国も人も考え方も同じだ。一人の人間の想像なんてはるかに超えていく出会いが待っている。


常識という言葉は存在しない。あるのは、人の価値観が重なり、いつしか当たり前のように見えるようになった無数の共通性でしかない。


優劣や、まして絶対的な正解はない。人の数だけの価値がある。それを認めることから始めよう。するとどうだろう。自分の世界が、見たこともないくらい広がっていく。


世界には、思いもかけないことで涙する人がいる。自分にとって何気ないことで誰かを感動させたり、笑顔にすることもできる。だから、見知らぬ世界へ手を伸ばすことはやめられない。そこにある、かけがえのない喜び。人生にとって最も価値あるその体験を、多くの人に知ってもらいたい。


世界を広げ、自らの可能性を広げてきた堀江健太郎の人生。


1章 生き方


1-1.  友達のつくり方


授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。誰ともなくお喋りが始まって、教室はざわめきに包まれる。伸びをして目線を放る。幼稚園からの馴染みの顔がある。


4月から通いはじめた小学校。教室の窓の外には、見慣れた普通の住宅地が広がっている。東京都北区にある、幼稚園から大学まで揃った私立の一貫校だった。


家には歩いて帰る。でも、同級生は電車で通う距離に住む子が大半だ。おそらくみんな同じような家庭。大体が裕福だっただろう。うちの父も会社を経営している。父はもともと国鉄の社員だったらしいが、物心ついたときからは、縁あってシステムエンジニアの人材派遣会社を立ち上げていた。


授業が終われば、学校指定のランドセルに教科書を適当にしまい込む。勉強はそんなに興味がない。友達と遊んでいる方が断然好きだった。


ひときわ大きな笑い声。ふと向こうを見ると、楽しそうに話しているグループがあった。何を話してるんだろう。気になって近づいて、何とはなしに背中を叩いて声をかけていた。


バンッ!


かけた声よりも響く乾いた音がして会話が止まる。が、すぐ笑顔に戻って会話が再開される。いつもの通りの光景だ。


見渡す顔ぶれは幼稚園からほとんど変わっていない。多くの人は幼稚園からそのまま進学したメンバーだった。会話の中心にいるあの子には、昔よく、手ですり潰したドクダミの葉っぱを顔に近づけて驚かせた。毎回反応が返ってくるのが楽しくて、何度もやっていたから覚えている。今もそれは変わらない。みんなが驚いてくれることが好きだった。


誰かがふざける。驚いた顔。また、大きな笑い声。自分も笑う。みんなと一緒に笑っていられれば幸せだ。思いのままに自由に遊ぶのが好きで、意味のある毎日だった。


幼稚園の運動会にて。


何かの授業のとき。あの日のことは今も覚えている。


「友達とペアを作ってください」。先生の掛け声で、机の合間を縫って小走りにペアができていく。近くには……空いている人はいないようだ。あとは誰が空いているか。さっさとみんなペアになるものだから、なかなか相手が見つからない。しばらく探して、見つけた人にやっと声をかけることができた。


「ごめん」。小さく断られる。すでに相手がいたようだった。


どうしよう。そういえば、自分には誰も声をかけてくれなかった。


急にこみあげてきた不安。そして分かったことがある。みんな仲の良い友達がいるんだということ。そうか、自分にはいつも一緒にいるような友達はいなかったのか。友達。友達をつくるってなんだ。どうやったらそんな友達ができるんだろう。こういう場面になると困るのか。


そういえば、幼稚園のときはそんなこと考えたこともなかった。友達をつくるのに何か工夫でもいるのかな。特に意識していなかったけれど、小学生になったら仲の良いグループのようなものができはじめているみたいだった。気づけば、自分はどれにも所属していなかった。


ときどき、みんなが自分のまったく知らない話題や遊びについて話していることがある。そんなことがあったんだ。みんなはその話題で盛り上がっている。輪の端で話題についていけない自分が見えてくる。なんとなく距離を感じる瞬間だった。


まぁ、しょうがないか。遊びたいときに遊べればいい。何かを深く気に病むような性格でもない。浮かんだ疑問も、すぐに過ぎ去って行った。




下校の時間。変わらない日常がまた続く。今日も近くにいた子に話しかける。いつものように、声をかける。


(バンッ!)


露骨に嫌そうな顔。返ってきた顔に、時が止まる。


「お前すぐ叩くから嫌だよ」


確かに。


何も言えずに、行き場の失った手を引っ込める。そうか、叩いたりすると嫌だよな。なんだか腑に落ちた。だからか……。なんとなく感じていたみんなとの距離の正体は、嫌がられていたからだった。


意識するようになると、一人一人の顔がよく見えてくる。みんなの表情が気になり出していた。自分が声をかけようとすると、相手の顔に浮かぶ嫌悪や緊張。気のせいじゃない。ひとたびそれを見つければ、呼びかけようとして喉まで出かかった言葉は、思わず奥の方に引っ込んでいった。


だからと言ってどうすればいいかは分からない。友達に声をかけようとしては止める。そんなことが何度か続いた。そのうちみんな、あまり話してくれなくなっていた。


一人、がらんとした放課後の教室を眺める。学校は友達と遊べるから好きだったのに。なんだか居心地が悪い場所に変わっていた。


夕陽が斜めに射し込む帰り道。周りを見ると、あっちでもこっちでも、みんな誰かと楽しそうに笑い合っている。


自分だけ友達がいない。


誰かは誰かと仲良くしている。あっちの誰かもだ。気づけば独りぼっちになっていた。なんで今まで気がつかなかったんだろう。


考えてみれば原因は自分にある。人を驚かせたり、スカートめくりをしたり。ちょっかいを出していれば楽しむことができていた。それが、友達と仲良くすることだと思っていた。それもしょうがない。いじわるすることくらいしか、自分は人に話しかける手段を知らなかったのだから。みんなからしたら、嫌なことばかりしてくるやつになっていた。


毎日の楽しみといえば、誰かと遊ぶことが一番だ。なのに現実は、ただの一人も隣を歩いてくれる人はいなくなっていた。


自分も一緒に遊ぶ友達がほしい。友達ってなんだ。友達だと思っていた人にとっての自分の価値って何だろう。考えはじめると、今までになく強く思いが込み上げてくるようだった。



真剣に、友達のつくり方を考えはじめた。


友達がほしい。自分にとって、これ以上ない強い動機だったから必死に考えることができた。


まず初めにしたことは、人を叩かないようにすることだった。すべてはそこからだ。人が嫌がることをするのは良くないことだと学んでいた。


次なるヒントは、意外なところから見つかった。当時はちょうど野球の楽しさに目覚めたころだった。野球は一人ではできない。友達がいない自分にはできない遊びだ。でも、どうしても野球をしたかった。


バットとボールとグローブを持ってきて、深く呼吸を整える。みんなの背中が見える距離で止める足。もしも断られたらどうしよう?でも、誰かと野球をして遊びたい。誘惑は、拒否されることの恐怖すら打ち負かし、一歩を踏み出させた。


「い、一緒に野球やってみない?」。勇気を出して、声をかけていた。


この間合いは知っている。緊張の瞬間だった。生唾を飲み下す。


「いいよ」


え?いいの?思わず聞き返しそうになった。まさかの反応だった。上手くいったみたいだ。信じられない思いで、バットを手渡した。


嬉しさは体中を駆け巡る。ひとしきり夢中で野球を楽しみ、久しぶりの感覚に酔いしれた。自分から遊びを提案すると、一緒に遊んでもらえるんだ。誰かとつながる方法を一つ見つけて、希望が見えてきた気がした。


野球をすることも楽しいが、もっと嬉しいのはみんなと一緒に楽しくいられることだ。それが何よりも嬉しい。


スポーツには何度も助けられた。特に自分が通う小学校は、スポーツが上手い人はみんなにちやほやされる空気感があった。体格に自信があった自分には幸いだった。


体育でドッチボールがあると分かれば、やることは決まっている。家で弟にボールを投げてもらっては、ひそかにキャッチの練習をした。授業では華麗なボールさばきを見せつける。結果、「こっちのチーム入れよ!」とみんなから引っ張りだこになる。


足の速さにも自信があったので、リレーの選手に選ばれようと力を入れた。自分が一番にゴールテープを切ると歓声が上がる。チームに戻れば待っているのは、浴びるような注目と称賛だ。視線が、みんなにとっての自分の価値を意味している気がしていた。


みんなに人気のスポーツで注目を集めると、ちやほやしてもらえる。それをきっかけにみんなに認めてもらえるようになる。そして、仲良くなって自然と友達が増えていく。


そうと分かれば、がぜん力が湧いてきてまた練習に取り組んだ。誰かに認めてもらえる喜びは代え難いものだった。


たくさんの友達ができるにつれ、小学校は前より好きになっていた。それだけでなく、だんだん自分が変わっていくのを実感していた。


「人が嫌がることはしない」。「一緒に楽しめる遊びを提案する」。「みんなに認めてもらえるように努力する」。考えてみれば、どれも簡単なことだ。友達のつくり方が分からず途方に暮れていた、そんな過去の自分に教えてあげたいほどだった。



1-2.  イチロー物語


10歳の誕生日。読書家だった母が、いつものように一冊の本をプレゼントしてくれた。


表紙には、『イチロー物語』というタイトルが書かれている。野球が大好きだった自分のために選んでくれたのだろう。自然に興味を引かれて、ページをめくる。そこには、凡人が天才になるまでの軌跡が綴られていた。


「イチローがいかに野球をやるのに向いてない体型や素質で、それをどうやって克服してきたか。幼少期からどういう風に育ってきたのかが書かれていて。それを読んで、自我の芽生えみたいなものがあった気がします。今までは自分のことを、とある小学校のone of themだという認識が無意識にあったのが、イチローの存在を知って、こういう風に生きる人もいるんだ。なりたいと思ったらなれるんだと思ったんです」


雷が落ちたみたいな衝撃だった。one of themとして生きている自分と、どんなハンデがあったとしても努力で乗り越えてoneになるイチローの姿。スポーツでみんなと仲良くなっていった自分と重ねていたのかもしれない。


それからはテレビでイチローが出場している試合の映像が流れると、食い入るように見るようになった。


バッターボックスに入り、お決まりの動作で体勢を整える。騒々しい球場で、イチローの周囲だけは一瞬の静寂に包まれる。それを、ボールの軌道が鋭く切り裂く。次の瞬間、安打の小気味よい音が鳴り響き、ベースを駆け抜けていくイチローの姿があった。


立ち上がって喜ぶ観衆たち。球場中の声援を浴びるその背中は、何よりかっこよかった。


気づけば、イチローが大好きになっていた。自分もイチローのようになりたい。いや、きっとこんな風に生きる。生きることができる。そう思った。


なりたい姿を定めて、それに向かって努力すれば夢は叶う。本はそう教えてくれていた。じゃあ、自分はどう生きるんだろう。未来何ができる人間になるんだろう。何を目指せばいいんだろう。未来を真剣に考えはじめたのはこの時だったと思う。


最初は純粋にイチローのようなプロ野球選手になりたいと思った。でも、どちらかというとイチローは細身の体型で、テクニックの選手だ。自分はそれよりもパワー型の体型だった。メジャーリーグで言えば、ちょうどケン・グリフィー・ジュニアみたいな選手になれるかもしれない。ホームランをたくさん打つから好きだった。本の影響で、ますます野球も好きになっていった。


新品のグローブを少しずつ手に馴染ませていくように、学校でも新しい自分を出しはじめる。自分もイチローのようにみんなから注目を集めたい。前に出る機会を見つけるたびに声をあげてみる。意外と大丈夫だ。みんなが見てくれている。じゃあ次は……。どうしたら目立てるのだろうと事あるごとに考えた。


いつものメンバーと放課後野球をするときは、決まって自ら練習メニューを考えて場を取り仕切る。ポジションはピッチャーが良かった。みんなの中心にいる気がするからこのポジションが一番だ。


みんなに注目される活躍をすればするほど、友達は増えていく。教室や部活では、いつもみんなの笑顔に囲まれていた。心と心のあいだに距離はない。不安なく、毎日はにぎやかだ。自分の価値を認めてもらえている。この実感が、さらに自分を解放していくようだった。


半ば、誰かに自分の価値を認めてもらうことに執着していたのかもしれない。小学校の最初の1、2年、誰も自分のことを気にかける人はいなかった。そのとき味わった気持ちは心の隅にありつづけ、ことあるごとに自分を急き立てていた。


価値を認めてもらえることが、やる意味があることだ。意味がないと思えることはやりたくない。認めてもらえることに繋がることをしたかった。


とにかく自分の価値を誰かに認めてもらえるように。


生き方の一歩目は、ここにあるのかもしれない。



1-3.  クリスマスプレゼントは家計のバロメーター


冬の朝は、誘惑の先に目覚めがある。あたたかい布団とのやわらかなせめぎ合いが続く。


薄目を開くも、冷たい空気が足元に迫ってくるようだった。思わず布団にくるまり直す。寝返りを打って枕元に顔を向けたとき。ふと、すぐ目の前に置かれたそれが視界に映った。


クリスマスプレゼントだ!かっと目を見開いた。




12月25日。待ちに待った日がやって来た。


急浮上する意識とともに体を起こし、包み紙を手に取った。そういえば、今年は事前に欲しいものを聞かれなかったな(去年は欲しいもののリストを書いておくと、すべて買ってもらえたのに……)。


手のひらに収まりそうなサイズが悪寒を誘う。気を取り直して、包み紙を破いてみる。出てきたのは、キーホルダーが一個。それだけだった。


これ、何だろう。


何とも言えない気持ちで、手の中のキーホルダーをまじまじと見る。青い体をした鳥が、こちらに微笑みかけている。これが欲しいと言ったことはない……はずだ。記憶はなかった。そもそも何のキャラクターなのだろう。サッカーボールを持っているから、サッカー関係のキャラクターなのかもしれない。見たところ分かるのは、せいぜいそれくらいだ。どこからどう見ても価値があるものには見えなかった。


力が抜ける。だけど……まぁ、今日のことはなんとなく分かっていた。


クリスマスプレゼントは、父の会社の事業のバロメーターだった。景気が良いときはプレゼントは豪華になり、景気が悪いと慎ましくなる。


1年を通じて家庭の雰囲気を見ていても、子どもながらに感じるものはある。それにしても、今年は歴代でも一番ひどそうだと謎のキャラクターが教えてくれる。会社が上手くいってないのかな。直接両親から聞いたことはなかったが、なんとなくそう感じていた。




小学6年生になり、遠からぬ卒業が見えてきたころだった。あるとき両親にこう言われた。


「あなたは頭が良いんだから、中学は受験しなさい」


突然のことで言葉が見つからなかった。反論しようとしたが、有無を言わさぬ雰囲気でその日は押し切られた。


自分が通っていたのは私立の一貫校だったので、普通は受験をしなくてもエスカレーター式に進学できる。だから当然、中学になってもみんなと一緒だと思っていた。


なのに、何でなんだろう。訳が分からなかった。


抵抗もできずに始めた勉強で目指したのは、いくつかの国立の中学校。受験勉強は苦戦することになる。


机に座り、なんとか必死に参考書にかじりつく。そもそも自分は勉強が好きでも、得意でもなかった。問題文を読みはじめると、不思議といつの間にか別のことを考えている。どうしても解けなくて親に聞いてみたが、私にも分からないと言われた。


もう、お手上げだ。受験勉強なんて、ハイレベルな勉強にはついて行けなさそうだった。そもそも今自分が勉強している意味すら分からない。この苦しみに一体何の価値があるのだろう。


しばらくそのままじっとしていると、急にむしゃくしゃした何かが込み上げてきて、手元のプリントを丸めて投げ捨てた。


乾いた音とともに、それは部屋の隅に着地する。何度目か分からない溜息が、自然と一緒にこぼれ落ちていた。


何のための受験勉強か、答えは分からぬまま時間だけ過ぎていく。


そのままエスカレーターでみんなと一緒の中学に行けばいいじゃないか。でも、親には言えない雰囲気がある。特に今回は、絶対の決定事項らしい。逃げ出したくなるけれど、ほかに道はない。現実逃避を繰り返し、いつしか自己嫌悪が日常になっていた。


息まで凍りそうな真冬の寒さに身を震わせる。2月、合格発表の日だ。


待ちに待ってはいない。どうにかこの日だけは来なければいいと思っていた。掲示された番号の中に、自分の受験番号を探した。無かった。たしかに無い。それを見て、静止していた世界がまた動き出す。


正直ほっとした。やっと解放されると思っていた。


安堵の息をつく。久しぶりに生きている心地がした。なんでこうも苦しんでいたのだろう。これでいいのだ。これでみんなと一緒にいられる。なんとも晴れやかな気分だった。


帰宅して両親に呼ばれる。すると、神妙な顔で告げられた。


「みんなと同じ中学に行くのはすごくお金がかかるけど、うちにはお金がないから行けません」


何を言われたのか、理解するのに時間が必要だった。一瞬をやけに長く感じていた。受験は失敗。私立に行くお金はない。つまり、鈍った頭で整理すると、残された選択肢は公立中学に行くことのみだった。


何でこんなことになったのだろう。思い描いていた友達との中学校生活はかき消えた。


卒業まで2カ月。何気なくとらえていたその日が、急に友達と過ごせるタイムリミットとしての意味を持つようなった。仲の良いみんなと離れ離れになるのはつらい。でも、何よりつらかったのは、自分が公立に行くことを友達に伝えなければならないことだった。


受験以外でほかの学校に行く理由は、お金の問題以外にないのだ。「公立中学に行く」と言えば最後。うちにお金がないと、みんなには知られてしまう。友達はみんな裕福な家庭の子ばかりだ。伝えたら、どんな反応をされるんだろう。想像するだけで呼吸が浅くなり、目の前が真っ暗になった。


「友達に言うのを何日もためらってた記憶があります。こう言ったらなんて言われるかなとか考えて。この中学は野球がすごいからとか言ったのかもしれないし。何個か嘘をつくパターンを考えたのか、最終的にはたぶん本当の事情を言ったのか。どれを言ったかは思い出せないですけど」


「うちにはお金がない」。自分だけ、みんなとは違うんだ……。あれだけみんなの中心にいたのに、みんなの前での自分の価値がなくなってしまう。瞬時にそれはコンプレックスとして形になっていた。


楽しかった世界の空気は、急速に変わりはじめていた。目に見えないところから色を塗り替えて、気づいたときには立ち込める暗雲のように一面を覆い隠している。どうにかこのまま雲の中に隠れてしまえないだろうか。




1990年代の始まりは、日本中を沸かせたバブル経済の終焉の始まりでもあった。


あとから知った話だが、父の会社もバブル崩壊の煽りを受けて、相当苦しい状況に立たされていたようだった。


子どもには何が起きているのか、よく理解できていなかった。ただただ確実だったのは、みんなと同じ中学に行けないことと、家での父の態度が目に見えて変わっていったことだった。焦燥、不安、苛立ち。父の目に映るさまざまな感情は暗く沈んでいて、母にも自分たち子どもにもきつくあたる日が増えていた。


ある日、両親の言い合いの最中に、父が空いたウィスキーの瓶を祖母に投げつけた。瞬間、祖母や母親、弟を守らなければと強く思った。許せなかった。父のやっていることに価値と呼べるものはない。気づけば体が前に出て、父に向かって行った。でも、小学生の子どもの力が大人に敵うはずはない。喧嘩の勝敗は最初から目に見えていたものだった。


いずれにせよ、その喧嘩は家族にとって決定的な何かになった。両親が相談し、翌日には父は家を出て行った。聞かされたとき、良かったと思った。父が家庭内でやっていることは、何の価値も見い出せないことだと思っていた。


これで家にはひとまずの平穏が訪れるはずだった。でも、この空虚な気持ちは何だろう。優しかった父はどこに行ってしまったんだろう。幼い心では、到底整理することなんてできなかった。


混沌としたままのやるせなさが、父のいない家の中に木霊しているようだった。



1-4.  公立の中学校


公立の中学校に知り合いは一人もいなかった。


せっかく努力して友達を作ってきたのに、今まで築いてきたもの、得たものをすべて失ってしまったようだった。友達もいないのに行く価値あるのだろうか。正直行きたくない。中学校生活は不安でいっぱいのスタートとなった。


近くには2つの公立小学校があり、生徒の多くはそのどちらかから進学してくる人が多かった。つまり、みんなは既に友達がいてグループができている。自分は見知らぬ環境に単独で飛び込むことになる。まして、公立の学校の雰囲気もよく知らなかった。


友達のいない教室で一人。人ごとのように、賑わうクラスの様子を眺めていた。


「どこの小学校から来たの?」


ふいに隣の席から声がした。話しかけてくれる人がいるとは思っていなかったので、結構驚いた。おずおずと出身小学校の名前を言うと、全然知らないと相手もびっくりしている。それもそうだよな。そう思うと、思わず笑いがこぼれていた。


たわいもない話をしているうちに、隣の席のその子とは仲良くなっていた。「また明日」。そう、また明日も会えるのだ。嬉しくて、思いきり手を振った。一人目の友達だ。それも、向こうから話しかけてくれたんだ。憂鬱だった気持ちはどこへやら、帰り道は足が弾むようだった。


一人友達ができれば、少しずつ輪も広がっていく。しかもここでは、一人でいると心配して話しかけてくれる子が多いようだった。小学校のころほど頑張らなくても友達ができそうだ。


なんだか拍子抜けしてしまった。変に身構えていたけれど、その必要はなかったのかもしれない。


毎日、家に帰ると不思議な感慨があった。ただ学校が違うだけ。それでも、こんなに環境の違いがある。自分が知らない世界があった。意外にも、この環境が楽しいと思いはじめていた。



小学校時代の私立中学に進んだ友達とも疎遠になったわけじゃない。


授業が終わり、懐かしい顔ぶれと集まった。前日に電話で約束をして、家の近くで落ち合うことにしていた。みんなが通う中学校は、自分も今まで通っていた小学校の校舎に隣接しているから家と近い。会おうと思えば、いつでも会うことができる距離だった。


今日はゲームセンターに行こう。誰かが言いだして、みんなが同意する。この前はカラオケだった。いつものお決まりはだいたいその辺だ。みんなに会えるのは嬉しかったが、どちらの遊びもお金がかかるものだった。


一瞬、財布の中身に意識が及び、不安がよぎる。


大丈夫。このあいだ親にもらったお小遣いが入っている。多くはないが、まだ残っているはずだった。ひそかに一人で胸を撫で下ろす。


何度か遊んでいたが、みんなはそんなこと気にしていない。やっぱり自分だけ……。私立の友達はお小遣いをたくさんもらっているのだろう。楽しさの影に覆い隠したコンプレックスが頭をもたげる。


でも、こればかりはどうしようもできない問題だ。私立の友達とは、あまり頻繁には遊んでいけなさそうだった。


公立中学の友達と遊ぶときには、財布の心配をする必要がない。お金のかかる遊びは、たまの贅沢だ。部活終わりのささやかな買い食いが楽しみで、よく安いおでんの屋台に立ち寄っては、近くの公園で座って食べていた。夢中で頬張り、空っぽの胃を満たす。染み渡るあの味に虜になって、飽きずに通っていた。


ほかにも誰かの家に集まるとき。私立では親から手土産を持たされるのが当たり前だったが、今やその習慣はなくなった。みんな何も言わずに上がり込んでいく(あるとしても、「うぃーす」という挨拶くらいだった)。


小学校と中学校、どちらの友達も好きだった。しかし、家庭環境の差が、遊び方の違いとして如実に表れてくるのを肌で感じていた。




新しい環境で、一人、また一人と友達が増えていく。そのなかで気づいたことがある。


私立の小学校にいたときは、みんながみんな平均的で、学力も家庭環境も似通っていた。でも、ここでは圧倒的な天才肌の友達がいる一方で、信じられないくらい勉強ができない友達もいる。


ある子にとって大切なものは勉強で、ある子にとっては大切なものはほかにある。それぞれ大切なものは違っていて当たり前。そしてそれをみんなが知っている。みんなで互いの価値を認め合っていた。


これでいいんだなと自然に思える。そんな環境で過ごしていると、家にお金がないというコンプレックスに囚われていたことも、いつしか意識の端に追いやられていくようだった。


公立の中学も悪くない。というより、日々を重ねるにつれ、これほど居心地の良い場所はないと思えるようになっていた。


入学前、あんなに嫌でたまらなかったのに、こんな気持ちでいられる未来が待っているなんて思いもしなかった。入ってみなければ知り得なかったことがたくさんあった。いろいろな常識が、価値観が入り乱れる。その空間が大好きになっていた。


中学では陸上部の主将を務めた。


1-5.  ギタリストの夢


小学生のころ憧れたプロ野球選手になる夢は、意外とすぐに諦めた。


中学入学前、何度かシニアリーグの練習に参加してみたことがある。数回通ってすぐ周囲のレベルの高さに圧倒された。小学校では自分がお山の大将だったんだ。現実を思い知らされる。だからといって、イチローへの憧れは変わらず色あせてはいない。でも、自分がこの道で価値ある選手になることは難しそうだ。そう思うと、すぐに熱は冷めてしまうものだった。


自分が価値を出せるものは何だろう。いつも探していた。将来の夢に向かい、今、意味あることをしていたかった。夢中になれる世界との出会いがあったのは、中学2年の時だった。




ドラムとベースに目配せし、息を合わせる。体でリズムを取って数拍、勢いよくギターをかき鳴らした。


全身で表現する音。音。音は雨のように降るのだ。


夢中で身を任せると、そこで生まれたばかりの音の奔流に乗っている。ギターで表現することが、こんなにも楽しいことだなんて知らなかった。放課後は音楽室に集まって、バンドメンバーと流行りの曲を練習する。中学2年の後半から、ロックバンドにハマりこんでいた。


みんなが好きなのはX JAPANやL'Arc~en~Ciel、GLAYなんかの日本のバンドだ。でも、自分が一番大好きなバンドはほかにあった。


演奏を終えて一息。鞄の中の1枚のCDアルバムを手に取った。水色の背景に、タバコを持った天使の絵。アメリカのハードロック・バンドVan Halen(ヴァン・ヘイレン)の『1984』というアルバムだった。


これがとにかくかっこいい。「Jump」という曲は有名だが、自分はギターソロだけで終わるいくつかの曲も好きだった。図書館でCDを借りてきては何度も期限を延長し、擦り切れるくらい繰り返し聞いていた。自分もいつかこんな音を出してみたい。


ギターもVan Halenも、教えてくれたのは一人の友達だ。


「日本の教育は終わってる」。そう言って、中学卒業後は単身ロンドンに渡ってしまった友達は、正真正銘の天才だったと思っている。飛び抜けて頭が良かった彼に、当時から抱いていたのは憧れだった。ロックへの憧れは、彼への憧れでもあったのかもしれない。そして、海外への憧れも、思えばそのころから始まっている。いつか海外に行ってみたかった。


世界の大きなステージに立ち、観客を魅了するロックのギタリスト。華麗なテクニックで歓声を浴びるのは、将来の自分だ。そう、彼のおかげで第2の夢を見つけていた。


バンドを組んで、音楽を仕事として食べて行きたい。そのために必要なのは、まず東京都の北区よりももっと都会に行くことだろう。自分はそう考えていた。


都立新宿高校。校舎はまさに新宿のど真ん中にある。それは、これ以上ない選択肢に思えた。


新宿にはライブハウスがたくさんある。まずはそこで、メンバーを募集しているバンドを見つける。都会だからたくさんあるはずだ。それからライブハウスで演奏を重ねるうちに、将来有望なバンドを探すスカウトマンから声がかかるだろう。最後は握手をして、ついにバンドは未来へ漕ぎ出していく……。イメージは完璧だ。


都立新宿高校はプロのギタリストになるための第一歩だ。それに見合うだけの技術を持っていると自信も持っていた。そう、自分はギタリストになる。夢を抱き、高校生活は期待に満ちていた。


高校の軽音部の仲間とともに。


想像できる未来があり、意気揚々と入学した都会の高校(ふたを開けてみれば、都会に住んでいる人よりも、都会に憧れる人ばかりだったのは笑い話だ)。


4月。どの部活も新入部員を迎え入れるべく、門戸を開いていた。


ライブハウスでバンドメンバーを見つけようと思っていたが、一応高校の軽音部も雰囲気は見ておくつもりだった。偶然、同じように軽音部に興味を持つクラスメイトがいたので、一緒に部活の見学に行くことにした。


聞けば、彼は小学校からドラムをやっているらしい。さぞかし上手いに違いない。それに、純粋に音楽というものが大好きなのが伝わってくる。好きな曲を語るときの熱量は、こちらが圧倒されるほどだった。同じバンドマンとして、尊敬できる存在であることは確かだ。


結局、その日をきっかけに意気投合し、ドラマーの彼と一緒にバンドを組むことになった。計画は変わったが問題はないだろう。上手くて気が合うメンバーがいるなら一番だ。


ギターとともに登校し、ギターとともに下校する。バンドメンバーは家族みたいに長い時間を一緒に過ごしている。毎日授業が終われば、スタジオに入って練習に明け暮れた。譜面通り弾けるようになれば、その先には表現の世界が待っている。音を出すだけでは意味がない。音にのる表情がある。追求してもし尽せない世界が自分を待っていた。


技術には自信があった。事実、自分はいろんなバンドに引っ張りだこで、何個もバンドを掛け持ちしては、さまざまなステージに立っていた。求められるのは純粋に嬉しい。それに、自分の技術や演奏の価値が認められている証拠だとも感じた。


技術を磨き、もっと観客を沸かせたい。上手くなりたい。純粋に湧き上がるその思いは、自分を強く突き動かしていた。




ある日、ライブの対バン相手の演奏を聞いていたときのことだ。曲はアメリカの伝説的ロックバンド、Red Hot Chili Peppersの「Around The World」だった。


目の前でギターが刻む音。それに、世界をすべて支配されてしまったみたいに立ち尽くしていた。


「その曲は楽譜をなでるだけなら簡単だけど、この曲の裏に流れるグルーヴ感を出すのが難しくて、本人にしかできないことだと思っていたんです。それを目の前でやってる人がいて」


自分がどうしても弾けないと思っていた音を再現している人が目の前にいる。しかも同年代。


技術では負けないと天狗になっていたのだと思い知らされる。同時に、世界はまだ広いと衝撃を受けた。こんなにも近くに世界が開かれていた。


さまざまなバンドマンに会うなかで、本気で音楽の道を志す人たちの熱量と自分の熱量の違いにも薄々気づきはじめていた。たとえば、最初から意気投合したドラマーの友達がそうだった。彼が好きな音楽を熱く語るたび、自分は果たしてここまでの熱量で語れるだろうかと考えさせられた。


自分は音楽に、これほど誰にも負けないほどの熱量を注げるだろうか。イチローだって、野球に注いだ熱量は、それくらいのものを持っていたに違いない。


人生をかけて、自分が価値を出せることをやっていきたい。


そう考えると、自分にとってギタリストになるという夢は怪しくなってくる。歩みを止めろと声がする。未来に向けてやる価値のあることでないのであれば、自然と自分は熱が冷めていくことも分かっていた。自分が価値を発揮できないとなると、急にやる気がなくなってしまう。


高校2年の後半までは続けていたバンドの練習も、受験とともに、ギターを背負って出かけることは少なくなっていた。


夢を失った自分。プロ野球選手は違う。ギタリストも。じゃあ、自分が価値を発揮できる道はどこにあるのだろう。道を探し求め、再び心は彷徨う。


価値がないと思うことはやりたくない。求めていたのは、人に認めてもらえるような自分の価値だった。でも、それは何なのか。自分は何がやりたいんだろう。掴もうとすると離れていく理想の姿。必死に求めているはずなのに、答えは見つかっていなかった。


応援団長を務めた高校の体育祭にて。


1-6.  世界を仲良くさせる


新宿よりも迫りくる高層ビルの間に、不釣り合いなほど鳴り響くサイレン。その音を、悲鳴と嘆きの声がかき消した。


2機目の飛行機がビルに突っ込んだ。60名以上の命を乗せた飛行機の残像。青空に爆炎が上がり、不穏な白煙がもうもうと遠くまで立ち込める。そして、徐々に倒壊していく建物。逃げ惑う人。道には瓦礫と死体が転がっている。昨日までの平和な都市が、まるで戦場のような騒乱に包まれていた。


これは事故なんかじゃない。


悲劇は唐突に訪れる。2001年9月11日、アメリカで起こった同時多発テロ事件の映像は衝撃とともに教えてくれた。


その出来事は、他人事だとは思えなかった。中学時代、自分に洋楽ロックの魅力を教えてくれた友達の顔が浮かんでは消えた。将来は国外に出たい。そのときから思っていたからなおさら自分事に思えていた。


アメリカだけでなく日本だって、いつこんなことが起きるか分からない。多くの人の命を脅かすテロは世界中、いつどこで起きても不思議ではないらしい。どの国にとっても、安全で平和な日々は当たり前のものではないようだった。


テレビで見にした映像は、ふとしたときに何度も浮かび上がってくる。あんなにも多くの人の命を一度に奪う出来事が世の中にある。何をしていても頭から離れなかった。


世界の誰かの毎日を脅かす存在。それはあってはならない日常であるはずだ。自分も何かできないだろうか。何か世界の平和に貢献できないか。それは何を差し置いても、今やるべき価値のあることのように思えた。


そのためには、どんな道を歩む必要があるのだろう。将来の仕事として調べてみると、国連職員や外交官という職業があることを知った。世界中の人のために存在する、意味ある仕事だと思えた。次の夢が定まった瞬間だった。


「バンドもやめて、空っぽなところに入ってきちゃったのかもしれないですね。調べたら、国連の職員か外交官になりたいと思えて。世界を仲良くさせること。それこそが自分がやるべきことだと思えたんです。何も知らない高校生が言ってるだけだけど、純粋にその言葉があるだけで、同じものを見ていても違う情報が入ってきたり、見え方が変わっていきました」


家でテレビを見ていると、国際情勢について報じられている。でも、ニュースでは表面的な情報や出来事の結論しか分からない。背景にある歴史を知りたくなり、世界史の教科書を自然と開いた。そこには、今まで知らなかった国と国の関係や、民族、文化、経済についての人の軌跡が記されていた。興味を持って面白く読む。気づけば歴史の勉強が大好きになっていた。


夢は、勉強のモチベーションの一つになった。ちょうど大学受験が近づく時期だった。


国連に就職するためには、国連の公用語であるアラビア語、中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語の6ヶ国語のうち、2言語以上を話せる必要があると言われている。英語は日本でも学べそうだが、ほかの言語をマスターするには留学するしかないだろう。だから自分は、海外の大学に留学したいと考えた。


でも、あんなテロ事件が起こったあとだ。母は心配して、「絶対怖いからやめてほしい」と反対する。ほかに手段はないかと悩んだ末、思いついたのは必須カリキュラムの中に留学が組み込まれている日本の大学に入ることだった。


法政大学の国際文化学部。絶対にここに行きたいと母に話した。そこに行く以外の道は考えられなかった。カリキュラムに留学が含まれていることは隠しておいた。無事に親の承諾を得て、高校最後の年はひたすら受験勉強に打ち込んだ。


一年はあっという間に過ぎる。3月。つかみ取った合格は、本当の価値を見つける旅の始まりだった。



1-7.  カリフォルニア留学


突き抜けるような青空の下、のどかな街並みが続いていた。パンフレットと地図を片手に、一人重たいキャリーケースを引きずっていく。世界には未だ知らぬ価値が広がっていると、キャリーケースの傷は一つ増える度に教えてくれた。


カリフォルニア州デイビス市。サンフランシスコにほど近い小さな町だった。町は大学を中心に広がり、郊外には遠くの地平線まで農業地帯が広がっている。太陽は強く照り付けているが、日本のように蒸すような感覚はない。乾いた風が背後から吹き抜けて、自分の背中を押した。


待ちに待った留学にやって来た。大学2年の夏のことだった。


留学先は、カリフォルニア大学デイビス校という学校だ(通称UC Davisと呼ばれていた)。最初の2カ月間、まずは語学学校で英語を学ぶことになっていた。


滞在先に荷物を置いて一息つく。長旅で体は疲れていたが、頭は不思議と冴えている。明日からの生活を想像してみる。新しい人や環境との出会いは、いつも自分にとって意味あるものだった。期待と興奮が湧いてきて、心は軽やかに踊るようだった。




語学学校のクラスの同級生は、アジア系の国籍の人が多いようだった。日本、台湾、香港、韓国といった国から、自分と同じように留学するために来た人たちが集まっていた。知り合いはいないが、いずれ友達になれるだろう。ぼんやりと考えていると、先生が教室に入ってきて思考はそこで中断された。


授業が始まり、先生は元気よく話し出す。


語学は日本でも勉強してきたが、英語が公用語の国で話すのは初めてだ。先生の話に集中して耳を傾けた。すべてとは言えないが、なんとか理解することはできる。頑張って勉強してきた甲斐がある。よしよしと一人満足した。


ふいに先生が学生に質問を投げかけた。


答えは何となく分かったが、言葉に自信がない。頭の中で必死に文法を組み立てようとしたその瞬間、周囲から勢いよく声が上がった。思わず体が縮こまる。見渡すと、クラスメイトたちは迷わず挙手をして自分の存在をアピールしていた。


先生が一人を指名する。学生は物怖じしない様子で口を開いた。発音も文法もめちゃくちゃだが、言いたいことは伝わってきた。何よりそこには相手に伝えようとする意思のようなものがあるようだった。「すばらしい」。笑顔で聞いていた先生は、頷いたあと太鼓判を押す。


少しの時間のやり取りだったが、なんだか圧倒されてしまっていた。


その後も同じように展開していく授業の中で、これまで日本で育った自分の常識について考えずにはいられなかった。


日本以外から来たクラスメイトたちは、みんなすごくアグレッシブだった。特に、韓国人がそうだった。拙い英語でも、自分の意見に自信をもって主張する。反対に、自分も含めた日本人はみんな失敗を恐れているのか、なかなか発言しようとしなかった。


せっかく留学にやって来て、どちらがより多くの学びを獲得しているかは明白だった。


自分は将来、英語を使って仕事をしようとしているんじゃなかったのか。ふいに国連職員や外交官になるという夢のことを思い出した。そのためには、今よりもっと英語力を向上させる必要がある。このままではダメだ。英語力を向上させるには挑戦が必要不可欠だ。


次に先生が質問を投げかけたとき、ありったけの勇気を振り絞り、手を挙げた。緊張からか、心臓はうるさく鳴った。


先生の期待のこもった視線がこちらに向いた。気にするな、勢いのまま喋ればいい。頭に浮かんだ英語を、口から出たまま声にする。笑顔。返ってきた言葉は、自分の意見を認めてくれるものだった。なんだ、自分にもできるじゃないか。ここでは失敗を恐れている方が損なのだ。


そうと分かれば授業以外でも、積極的に人に話しかけてみよう。デイビスの町の人たちは、おしなべて親切で好意的だった。次第に会話を楽しめるようにもなると、英語はどんどん上達していった。


アメリカ留学中、親しかった台湾人・韓国人の友人とともに。


毎日をともに過ごすうち、クラスメイトたちとも仲良くなっていった。


当時はちょうど韓国で反日運動が起きていた時期だった。韓国人はみんな日本人のことを嫌いなんだろうと思っていたが、留学先で出会った韓国人は「そんなこと俺らには関係ないだろ」と笑い飛ばしている。


ニュースで受け取る国の印象と、実際は随分違うみたいだ。それはそうか。ここで友達なのであればそれ以上でも以下でもない。誰がどこの出身かなんて関係ない。どこかで拾った断片的な情報だけで、イメージを固めてしまうことは本当に良くないと感じた。


目の前にいる友達は、一人の個人としての価値観をもっている。国や人種、民族などの問題は、それとは別にある。


誰かと話すたび、常識という名の枠が一個ずつ外れていくのが分かる。そのたびに自分の価値観が広がっていく、じわじわとした音がたまらない。世界はこんなにも驚きに満ちているなんて知りもしなかった。


世の中には、枠の中から見ると知り得ない、豊かな世界が存在している。これまでの人生、自分はどれだけ狭い枠の中で生きてきたのだろう。留学を通じて、それを自分の危機であると認識できたことには大きな意味があった。枠に囚われるとは、何て悲しいことだろう。自分の枠に気づけぬうちは自分の価値を小さくとどめているに過ぎない。


枠の中にいるときは、そこにある枠の存在にすら気づけない。しかし、ひとたびそれが外れると、代えがたい喜びが全身を巡るような感覚がある。誰しもにそれぞれの価値観があり、決まりきったものであるわけがない。自分もそうだ。


思えば、公立中学に入ったときもそうだった。最初は失意のどん底にいた自分も、様々な価値観に触れ、卒業するときは喜びで満ちていた記憶がある。ちょうど、さまざまな国の友達に囲まれ笑っている今のように。友達になれると思っていなかった人々の価値観を知り、深くつながることができている。


世界に触れ、枠が外れる。すると、こんなにも多くの人に自分の価値を認めてもらえるようになる。そして自分の世界は広がっていく。


それこそが、誰にとっても価値あることなんじゃないだろうか。


カリフォルニアの広い空の下、その空の繋がった先にある国々のことを思った。同じ空の下で暮らす人、その誰しもにとって価値のあることだ。自分の大切にしたいものの輪郭が、少しずつ目に見える線になりつつあるようだった。



1-8.  カルチャーショック


バイト先のドアを開けると、勢いよく飛び交う中国語が耳に入ってくる。


日本に帰国し、日常が戻ってきた。当時は、大学近くにあるチェーンの安居酒屋でキッチンとして働いていた。自分が挨拶すると、会話がやんで同僚たちは一斉にこちらを見る。片言の日本語の挨拶と、屈託のない笑顔が向けられる。


2005年ごろは、中国がまだ今ほどの経済成長を遂げていなかった時代だった。当時は学生ビザが取りやすく、偽留学生として日本に出稼ぎに来ている中国人が多かったためだろう。バイトの同僚は自分ともう一人以外、全員が中国人だった。


国籍の違いなんて忘れてしまうほど、バイト先はみんな仲が良い。一緒に故郷に旅行に行かないかと誘ってくれたのは、なかでも一番仲が良かった中国人の友達だった。


遼東半島の南端にある港湾都市、中国・大連。異国の地に降り立とうとする飛行機の窓からは、空港の敷地ぎりぎりまで隣接する高層マンションや家々の姿が見えた。


海に近い都市の街並みは、港湾、貿易と観光と工業によって栄えている。市の中心にあるありえないほど広大な広場。日本に統治されていたころに建てられた重厚な欧風の建造物。大通りにあふれる人の波。熱々の中国料理。長い長い歴史のなかで培われた国のパワーに圧倒される。同時に、新鮮なその感覚に心は沸き立っていた。


街並みを堪能し、夜は現地のホテルで一息入れる。宿泊先として友人が取ってくれていた。なんでも友人の父親が大の日本嫌いであるらしく、「敷居をまたぐな」と言われて実家には泊まれないからということだった。


親子であってもこんなに価値観が違う。時代が変われば、人の考えも変わる。今思えば、象徴的な出来事だった。


「明日は朝5時に絶対起きてほしい」。


寝る前に友達にそう言われた。理由は特に聞かなかった。そんなに早く起きれるだろうか。一緒に来ていたもう一人の日本の友達と顔を見合わせたあと了解し、眠りについた。


翌朝。怒ったような友達の声で、目が覚める。二人で盛大に寝坊していた。


慌てて謝る。でも、友達は見たこともないくらい本気で怒っているようだった。急いで身支度を整えて向かった先は、あの大きな広場だった。何が何だか分からないまま人だかりの中心を見る。空に高くそびえる白いポール。そこに、中国の国旗がゆっくりと上がっていく様子を群衆はただ見つめていた。


風にまたたく国旗を呆然と見る。自分には分からなかったが、何か大切な意味のあることなんだろうと思わせる空気が辺りに満ちていた。ふと何気なく横を見ると、見知らぬおばさんが静かに涙を流している。予想もしていなかった光景に、動揺した。


国旗掲揚。それは、少なからず愛国心のある人ならば、誰もが当たり前に参加するものであるようだった。これまで感じもしなかったことであったが、友達の心にもたしかにナショナリズムが根付いているんだと思った。


その日、友達はずっと不機嫌だった。自分のことをすごく侮辱されたような気分だとも言っていた。そう言われても自分に悪気はなかった。けれど、良くないことをしてしまったことは分かったので平謝りする。幸い翌日からは元のように接してくれたので、ほっと胸を撫で下ろしていた。


カルチャーショック。後にも先にも忘れはしない。彼らの常識は、自分の常識ではないのだと思い知らされた。世界は身近にあっても、自分とは遠く離れたところにある価値観があることを教えてくれた。


自分の中でまた一つ、何かが外れる音がした。中国旅行は世界を広げてくれた大切な経験だった。



1-9.  就職活動


海外を旅する。それが新しい当たり前になっていく。アメリカ留学中の友達とは、日本に帰国してからも交流が続いていた。


アルバイトでお金を貯めては、友達の住む国を訪れる。懐かしい再会は、毎回胸が熱くなる。当時は大学の授業も余裕で単位を取り終えていたので、ある程度自由に時間を使うことができていた。


台湾や韓国、タイにベトナムにカンボジア。日本の友達を連れて行くこともあれば、一人のときもある。7、8か国は訪れただろう。新しい景色。新しい価値観。目にするたびに人生は豊かに彩られていく。いつしかそんな旅が大好きになっていた。


異国の地で眠りに落ちる前、ふと将来について考えることがある。就職活動が始まりつつある時期だった。自分はどんな道を歩むべきだろう。さまざまな国に友達ができ、彼らと時間をともにしながらも考えていた。


国同士の問題を解決し、世界を平和にする仕事。そのために国連職員や外交官という仕事を夢見ていたが、振り返ってみれば、学生時代の自分は国を越えての友情を数え切れないほど育んできた。国と国がいがみ合っていたとしても、そこに生まれた個人は仲良くなることができる。ほかでもない自分自身の実感が、やりたいことを再考しろと駆り立てていた。


世界を仲良くさせるために、本当に自分がやるべきことは何だろうか。


もう一つ大事なことは、長年付き合っていた彼女の存在だった。初めて家族のような関係を見出すことができた人だった。この暮らしが一生続くとしたら楽しいだろう。そう思うと、彼女との未来を守れる仕事につくことが最善のようにも思いはじめていた。つまり、安定して給料がいい仕事だ。それがあれば彼女との暮らしは守りつづけられる気もしていた。


はっきりとした確信は正直なかった。とりあえずリクルートスーツに身を包み、さまざまな企業の話を聞いて回った。まずは知ることからだろうと考えていた。


なかでも目に留まったのは、経営コンサルタントという仕事だった。ロジカルに物事を考え、多くの企業に価値を提供する。しかも、給料がいい。


「コンサルは短期でいろんな会社を相手取って、その会社を良くしていく。お客さんである会社にも、エンドユーザーがくっついている。だから、就活では『コンサルっていう仕事は、自分のやった仕事で一番価値を与える人数を最大化できる仕事だと思うので、この仕事をやりたい』と言ってました。後付けで考えたものでしたけど、自分で言って、就活が終わるころにはかなり腹落ちしていて」


より多くの人に価値を与え、喜んでもらえること。世界平和への貢献ではないけれど、世界を仲良くさせるための一歩であるとも思えていた。面接では自信をもって思いを語ることができた。頷く面接官の顔を見る。どうやら認めてもらえたようだとほっとした。


いくつか内定をもらい、最終的には日本IBMで働く道を選ぶことにした。



1-10.  日本IBM


広いフロアを見渡して、気を引き締める。今日から新しいお客さんのプロジェクトに入ることになっていた。


上層部から与えられたミッションは、「年功序列の昇進で増えすぎた肩書きだけの中間管理職のリストラ」だった。


クライアント先には明確な評価システムがなかった。社員は定年まで働けるという前提で採用されていて、年功序列と役職者のさじ加減だけで給料が決まっていく。いわゆる日本の景気が良かった時代につくられたシステムだった。


リストラするには大義名分が必要になる。だから新しく評価基準を作成し、それに基づきリストラを行うことになっていた。


プロジェクトが始まれば、まずは現場の社員に声をかける。業務についてヒアリングをして回っていく。相手は手を止めてこちらを見た。


「なんでお前らに言われなきゃいけないんだ!」


一瞬のあと、返ってきた強い怒声。周囲の社員も思わず手を止めていた。集まる視線は、一様に非難の色をはらんでいる。怒鳴られたのは決して初めてのことじゃなかった。


基本的にコンサルに仕事を発注するのは経営を握る上層部だが、実際に業務で対面するのは現場の社員が多い。現場からすると今のままで良いのにも関わらず、上層部の指示でやって来る自分たちのような存在は、目の敵にされるというケースも多かった。


その会社でも、本人たちはリストラされるのをなんとなく分かっていたのだろう。怒鳴られたり、協力を拒まれたりすることはしばしばだった。


多くの人を喜ばせたいと思ってコンサルタントになったのに。いつも嫌われ者だ。「自分のやった仕事で価値を与える人数を最大化したい」。入社当初掲げた思いとの狭間に心はわずかに揺れはじめていた。




ある日、仲良くなったお客さんと一緒に酒を飲んでいたときのことだった。仕事以外の深い話もできる仲の良い知人といえる人だった。


お互い親しみを感じられる何気ない会話の中で、彼はこう聞いた。


「堀江君はなんでコンサルになったんだ」

「多くの人を笑顔にしたいんです」と自分は答える。

「俺、堀江君と仕事してて、一回も笑顔になったことないよ」


相手は冗談めかしてそう言った。笑いが起きる。自分もどうにかして笑う。笑いが収まって、手元の酒の水面だけが静寂を装おうとしていた。


店の前で別れた後、家へと向かう帰り道、そして布団に横になったとき。ぐらぐらと酔いが回る頭の中で、さっきの言葉が繰り返し響いている。一回も笑顔にしたことがない。たしかにその通りだ。否定はできなかった。それに、それを当たり前のものとして受け入れていた自分がいる。


翌朝目覚めたときも、言葉はこだまし、胸面をさまよっていた。


入社して以来、立ち止まって考えたこともなかった。嫌われていることが当たり前になっていたけれど、そんなつもりで入ったじゃなかったんだと、心が言っていた。


お客さんである会社のために身を粉にして働くにもかかわらず、現場から自分の価値を認めてもらえることは、これまでもこれからも無さそうだ。今の仕事は、自分が本当にやりたいことなのだろうか。自分にとってやる価値のある仕事といえるのだろうか。


一度浮かんだ疑問は、日に日に大きくなっていた。



1-11.  旅のスタンダード


目の前の仕事には、気持ちがどうも入らない。気持ちを満たしていた何かが無くなると、代わりに世の中に目が向いてくるようだった。


なんとはなしにパソコン上の情報を眺めていたある日、一通のメールの受信を知らせる通知が目についた。


懐かしい名前だ。アメリカに住む友達からだった。嬉しくなってすぐに中身を開いてみると、それは何かの招待メールのようだった。


英語を読むと、どうやら「Facebook」というWebサービスであるらしい。本名を登録すると、その後もやたらと個人的な情報の入力を求められる。出身地、学歴、プロフィール写真……よく分からないが、友達を信用するしかない。


最後に「OK」というボタンをクリックすると、間もなくそれは世界に開かれた。まったく新しいサービスであることが分かった。友達の友達を辿れば、留学時代に出会った懐かしい顔ぶれがある。しばらく顔を合わせない友達でさえ、国を越え、近況を知ることができる。


世界には今こんなものがあるのか。衝撃だった。


日本ではFacebookは流行りはじめの時期だった。スタートアップという企業形態を知ったのも、Facebookがきっかけだ。小さな会社がいち早くサービスを世の中に出し、ユーザーの反応を見ながらサービスを改善させて急速に成長させていく。赤字の状態から資金を調達し、世界で勝負できるほどの会社へと変貌していく姿。興味を持ってネット上の記事を読みあさると、自分では到底考えの及ばなかった世界が展開されていて興奮した。


世界にはこういう会社があるのか。自分の中の常識の枠が外れていくのと同時に、インターネットというもの自体にも興味が湧いていた。


インターネットについてもっと知りたい。あれこれと調べたり本を読んで勉強していくうちに、あるとき「カウチサーフィン(Couchsurfing)」というサービスの存在を知ることになる。


「旅」にまつわるものであるらしい。説明を見ると、旅先で宿泊先を探す旅行者と、自宅などを無料で宿として提供するホストをマッチングさせるという、なんだかヒッピーなサービスであるようだった(今でいうAirbnbの無料版といえる)。実際にサイトにアクセスしてみて、これはすごいと直感していた。


学生時代から旅はずっと好きだったので、すぐに自分も使ってみたくなった。試しにインドネシアに旅行することにして、現地のホストを探す投稿をする。インターネットという電子の海を越え、即座に反応が返ってくる。やっぱりすごい。はやる気持ちを抑えながら英語でやり取りし、無事宿泊先を定めることができた。


カウチサーフィンでは、ホストは家に泊めてくれるだけではない。合流してから旅行者に国の観光案内をしたり、一緒にご飯を食べたりするのが普通だ。つまるところ異文化交流したい人や英語を話す機会がほしい人向けのサービスで、コミュニケーションの密度は濃い。


大歓迎だ。世界は自分の価値観を広げてくれると知る自分にとっては、まさにぴったりのサービスだった。


カウチサーフィンを利用し、オランダ人2人とインドネシアのジャワ島をツーリングした。


数週間後。亜熱帯の強い日差しに照らされながら、現地のホストと握手した。「よろしく」。日に焼けた彼は、笑顔で自分を迎えてくれた。


赤道直下にいるからじゃない。一日をともにするなかで、自分は冷めない興奮に包まれていた。


彼に案内してもらうインドネシアは、とにかく刺激的で、発見と感動に満ちていた。道中は、その土地に長く暮らした人しか知り得ない(しかし、彼らにとっては当たり前の)土地の歴史や文化、価値観などの話を聞いた。偏見がなくなり、いくつもの自分の枠が外れていくのが分かった。


こんなにも多くの学びが得られた旅は、人生で初めてだった。観光客目線で回る旅とは全然違う。というより、旅というものの概念がまるっきり変わってしまった。同時にそれは、自分のやりたいことそのものでもあった。


「僕がインドネシアで体験したような旅っていうもの、つまりローカルな人から学ぶことで、すごく学びが多いとか偏見がなくなるとか、それが旅の本質だとすると。今、日本で一般的な旅にはその本質がないといこうことを仮に事実として置いたときに、僕が体験した旅を『旅のスタンダード』にできれば、もやっと考えていた世界を良くしたいとか、平和にしたいというところに結構つながってくるんじゃないかと、ピーンと来たんです」


個人が偏見や国同士の問題を越えてつながっていけば、そこで多くの枠が外れていくだろう。それはいつか国同士の関係すら変えるほどの大きな力になり得るのではないか。その力こそが、世界の平和に貢献するのではないかと考えるようになった。


かけがえのない大切なことを教えてくれた旅。あっという間に旅程は終わり、別れの時がきた。その旅で出会ったホストには、感謝してもし尽せない。短い期間だったが、心を通わせ互いの価値を認め合った。


心は深い感動に満たされている。旅はときに、個人の人生を変えてしまうほどの力がある。価値観を変え、可能性を一気に広げてくれる力が。


確信とともに、日本行きの飛行機に乗り込んでいた。


日本IBM時代、海外旅行者を家に招いて開いたパーティにて。


自宅の玄関から、客の来訪を告げる音が聞こえてくる。急いでドアを開ければ、今日のゲストがそこにいた。


日本に帰国してからは、今度はホスト側としてカウチサーフィンを利用するようになっていた。日本にいながら英語を話す機会が得られるし、自分が行ったこともない国の話を聞けるのはたまらなく面白い。夢中で日々を過ごすうち、気づけば1か月のうち20日くらいは外国人が泊まっている状況になっていた。お金がもらえるわけでもないから、当時は単純にそれが趣味みたいになっていた。


世界中の個人をつなげたい。


やりたいことが見つかって、最初はNPOとして思いを形にすることにした。日本を訪れる外国人と、日本で英語を話したい日本人をマッチングするイベントを開催する。一緒に屋形船に乗ったり、座禅を体験したり、日本文化というものをテーマにして、さまざまなイベントを企画した。


人は集まり、企画は好評だった。なんだか会社の仕事よりも楽しくなっていた。しかし、まもなく壁にぶつかった。NPO法人では利益を出せない。利益を出せないと、スケールできないということに気がついた。


問題はほかにもある。


イベントを楽しむ参加者たちを、少し離れたところから眺めて思う。その顔ぶれはいつもだいたい同じであることに気がついていた。国際交流に興味がある人たちは、自分がいなくても何かしらの方法を見つけるだろう。国際交流したい人同士をつなげること。交流したい人達は自然とそうしている。そうであるならば、そこに自分の介在価値は無い。


それに自分は、海外旅行や国際交流に興味がない人たちすらも巻き込みたかった。自分が考える旅のスタンダードを伝えることで、その人たちの人生の可能性を広げたいという思いが強くなっていた。


Facebookを知ってから胸にあった思い。アイディア一つで世界を変えられる。自分もそんな価値あることを、人生の仕事にしたかった。そして、自分が信じる価値を世の中に広めたかった。


インターネットを使った新しいサービスを作ろう。自分がいることでしか作れないサービスを。決意が自分を動かしていた。


運営していたNPO法人にて。


1-12.  起業


会社に辞表を提出する。IBMでは「サバティカル休暇」という名目で、最長で半年間の有給休暇を取ることができた。自分もその期間を利用させてもらうことにして、その間知り合いのスタートアップで丁稚奉公させてもらった。Webサービスの基本となるKPI管理や、コンサルで学んだソリューションがどう活かせるかを学ばせてもらうことができた。


同時に、自分はどんなサービスを作れるだろうと考えていた。NPOでの失敗を振り返る。異文化交流ではスケールしない。それなら次に異文化交流に近いものといえば、やはり「海外旅行」だろうかと考えた。それならマーケットも大きい。


海外旅行に興味がある人向けに、現地の人が旅行のプランを考えてくれるサービスはどうだろう。アイディアを携え、投資家に会いに行くことにした。


思いを熱く語り、事業の構想をアピールする。反応は乏しい。それどころか、会いに行った投資家全員にダメ出しされた。


認めてもらいたいのに、認めてもらえない。失意のどん底で、それでもあきらめきれなかった。




「それ自体は正直終わってると思うけど、その軸は面白いよね。僕も納得できるビジネスアイディアがあったら、ぜひ一緒にやりたいよ」


そう言ってくれた人がいた。のちに創業期から投資してくれることになる、インキュベイトファンドの村田氏だった。仕事の合間を縫って、一緒にアイディアを練り上げていく日々が始まった。


旅を通じて世界中の「個人」をつなげたい。株式会社ワンダーラストが設立されたのは、2013年6月のことだった。


「あとから村田さんに聞いたのは、結局、スタートアップの投資家のリスクとして一番怖いのは、起業家の心が折れることらしくて。事業がうまくいかないだけだったら売却すればいいけど、起業家の心が折れると結果的に全損になっちゃうから。僕の場合は生い立ちとか聞いてくれて、そういうやつが事業やりたいと言ってるんだったら信じれられると思うから投資してくれたと言っていました。思いもなく、こういうのがなんとなく儲かりそうだからでやる人は、たいていすぐ辞めちゃうらしくて」


月に20日も外国人を家に泊めている。それが、投資家の目にはクレイジーに映ったらしかった(たしかに今思えば異常な行為だった)。それでもそれこそが、信じるものを突き通せる証明にもなっていた。


自分の人生をかけて、成し遂げたいと思えること。個人の価値観は、一人一人色も形も違うはずだ。そして旅は、常識という名の枠を外し、世界を新しい目で見られるようにしてくれる。


新しい価値観を知ると、それまで考えもしなかった選択肢が浮かぶようになる。それまで気づかなかった物事に気づくことができるようになる。自分の可能性がどこまでも広がっていく。それこそが、自分の人生を豊かにしてくれるものではないだろうか。


自分が起業を決断できたのも、旅先で出会った人たちの存在がいたからだ。


大学時代、祖国に誘ってくれたバイト先の友人。失敗を恐れる日本人の価値観に気づかせてくれたアメリカの留学先の友人。旅の本質を教えてくれた友人。それから心配になるほど社会的責任を背負わずに旅して生きている、ちゃらんぽらんな友人たちも。たくさんの人と出会ってきた。


自分の常識が、可能性を狭める枠でしかなかったことを教えられる。彼らの姿を見ていると、自分も本当にやりたいことを考えて、もっと挑戦してみようと思うようになっていた。だからこそ、起業という決断ができた。


「自分の人生の可能性を広げられたというところがすごく価値ですね。同じ価値観を持った人だけの集団にいると、それが常識っていう言葉に変わってきちゃうじゃないですか。でも、それって常識ではないと思っていて、単なる価値観の集合でしかない。それが外れることに、自分はすごく価値があるなと思います」


良い大学に入り、大きな会社に入る。そうして平穏に働いていくことが良い暮らしなのだろう。自分も昔は、それが常識的な幸せなのだと思いこまされていた。


でも、常識なんてものは存在しない。価値観という名の枠があるだけだ。世界中多くの人がそれに気づき、リアルでもインターネットでも国境を越えてつながっていく。そうすればきっと、個人の力が増幅し大きなうねりとなる。国同士の問題すら超えていく日が来るはずだ。


多様な価値観が彩る世界のなかで、自分はもっと多くの人が幸福を手にする未来を信じている。


創業時、初の自社オフィスにて。


2章 ワンダーラスト


2-1.  旅を通じて世界中の「個人」をつなげる


初めての町を歩く。その土地にしかない空気の匂いを知りたい。空や太陽はどんな色をしているだろう。そこでは、夜寝る前にどんな音が聞こえるのだろう。人々はどんな食べ物を好んで食べるのだろう。どんな歴史があって、人の心には一体どんな思いが残っているのだろう。


見知らぬ国に行きたい。そこに住む人の生活や価値観を知りたい。狭い日本を飛び出して、今すぐパスポートを握りしめ世界に飛び出したい!


好奇心にも似たそんな欲望や衝動のことを、一言で表す英語がある。


「Wanderlust(ワンダーラスト)」


ドイツ語にルーツをもつその単語は、日本語では「旅への渇望」と訳される。人の心に旅への渇望(Wanderlust)を生み出したい。誰よりそう願うからこそ、堀江はその言葉を社名とした。


海外に行って、綺麗なものを見る。美味しいものを食べる。それだけでは、旅の可能性を十分に味わい尽くしたことにはならない。多くの見過ごしている視点がそこにはある。そこに住む人々と交流を持ち、その国の歴史や価値観を学ぶこと。そこに真の旅の価値があると堀江は考える。


旅体験をログブック(旅行記)としてコレクション・共有できるサービス「Compathy(コンパシー)」。旅や海外への固定概念を塗り替えて、旅にまつわる新しい価値観や魅力を発信するWebマガジン「Compathy Magazine」(日英中3か国語で配信)。そして、同社の開催するオフラインの文化体験イベント。


ワンダーラストの提供するオンラインとリアル双方の場では、真の旅の価値に触れられる。


そこではユーザー間にコミュニティが創り上げられ、世界中の人々が「心の国境を無くす」ことが可能になっていく(同社サービス上では、ユーザー同士で旅の計画作りを手伝い合えたり、現地で一緒に食事ができたりと交流が促されるサービスを私たちは手にすることができるようにしていく予定だ)。


ユーザーミートアップにて。


2-2.  ワンダーラストの本質


新しい価値観と出会う旅。堀江自身、起業のきっかけは旅のなかで見つけたものだった。


「起業するなんて一切考えたことなかったのに、旅の中で、あまりに自由に生きている人と出会えたおかげで、僕も何かやりたいように素直に生きてみようと思えた、価値観として芽生えたわけですよね。だからこそ、そういう新しい価値観を持てるような機会を提供したい、それをどんどん実現するようなプロダクトをつくっていきたいと思います」


旅を通じての出会い、社会的な責任やしがらみに縛られず自由に生きる人々との出会いのなかで、価値観は広がり、やりたいことに素直に生きてみようと思うことができた。本当はもっと多くの選択肢があるにもかかわらず、盲目になっていたことに気がついた。


選択肢が広がることで、本当に生きたい自分の人生を手元に手繰り寄せることができる。


自分にとって当たり前としていた枠の存在に気づき、価値観を広げていくこと。同社では、その機会をもっと広く提供できるようなプロダクトを創出していく。


それは究極、「旅」である必要もない。大切なことは違う価値観を知り、理解することで見えてくる選択肢。それを比較し、納得したうえで道を選ぶこと。その連続が人生を豊かにしていくと信じている。


たとえば、日本でホームステイの受け入れをする家族を増やすことでもいいと堀江は語る。親がホームステイを積極的に受け入れている家庭であれば、子どもはより多くの異文化との交流機会に恵まれることになる。異文化と触れ合うことで、子どもたちは他者を知り、世界の広がりを知り、自分自身を知ることができるだろう。


より多くの選択肢があるなかで選んだ方が、人生は納得感のあるものになる。


だからこそ同社では、人の価値観や可能性が広がる機会を自然なものとして増やしていきたいと考えている。偶然や運によるものだけでない、日常に人々の可能性が広がりつづける世界。


人々の偏見や固定化された価値観の枠が取り払われていくことで、世界中多くの人の心がつながっていく。国境を越えて心と心がつながった個人の力が、世界を変える。ワンダーラストは、人々の心を重ねることで生まれる価値を社会に広めていく。



2-3.  会社を守りたいと思える会社か


狭い枠の中にいることに気づかずに、自分にとっての常識に囚われてしまうこと。それは、会社という組織の中でも起きうることだ。


たとえば、同じ会社のエンジニアと営業のあいだでも、ものの見え方は異なってくるだろう。ワンダーラストでは、社内における「異文化」交流も大切にしている。


国籍だけでなく、職種やチームが違う人に対し、どれだけ異文化の壁を越えコミュニケーションを取りに行っているか。どれだけ相手を理解しているか。同社では、それを促進するコミュニケーション機会を設けるだけでなく、人事評価基準にも入れているという。


日ごろから異文化に触れることを意識していくことで、自然とそれぞれが互いの価値観を認め合えるような会社の文化がつくられていく。


「ほかの会社から来た人から聞くと、結構うちの会社は仲が良いっていうのは言われますね。仕事論としても、信頼関係って最強にコミュニケーションコストを減らすと僕は思っていて。疑うって最高に意味のない行為だと思うので、そういったことが無い状態を作る上でも、信頼関係とか仲が良い状態はすごく大事にしています」


過去には会社として、二度の経営危機に直面したことがある。その過去においては、リストラという選択肢を取らざるを得なかった。経営者としての力不足、申し訳なさを痛切に抱く経験だった。


だからこそ今では、会社の危機すらも一緒に乗り越えていける、強い信頼関係で結ばれたチーム作りが大切だと考えるようになった。


「今はうちって『Compathy(コンパシー)』と『Compathy Magazine(コンパシーマガジン)』という2つの事業があって、『Compathy Magazine(コンパシーマガジン)』っていうサイトが広告事業で売上を作ってるんですが、創業当初はその事業が立ち上がる前だったのでインする売上がまったくなかったんですね。当時はお金が減ってくだけだったので、調達するか、もしくは自分で何か売ってくるかしかない。それができなくて。うまくそのあと黒字化できたので、今はだいぶ安定しましたけど、そういうことを乗り越えられるようなチームになるといいなと本当に思います」


日に日に減っていくお金をつなぐこと。経営者としてそれができずに、給料を払いつづけることができなくなった。最悪の選択肢を取らざるを得ない。そうなれば早めに伝えるのが礼儀だと考え、給料が払えなくなる見込みの3か月ほど前に、その間の給料は払うので転職活動を優先していいとメンバーに伝えるしかなかった。


二度の危機の原因は、結局、金銭的な問題だった。築いてきたものを失う痛みは忘れようがない。


当時、それでも会社を続けたいと言ってくれたメンバーもいた。自主的に受託開発の案件を取ってきてくれたり、売上につながるものを探してくれた。最終的に限界を迎えることとなったが、そこには表面上の仲の良さだけではない、家族のような関係があったと思えた。


ただ仲が良いだけではない。お互いが包み隠さず本音で言い合えるような信頼関係、それぞれの価値を認め合える信頼関係。そして何より、「この場所が無くなったら嫌だ」と「会社を守りたい」と思えること。それこそが、荒波でもがくスタートアップという小さな組織を、真の意味で強くするのだと、痛みとともに学んできた。


一人の価値観を広げるという意味でも、強い組織を築き上げるという意味でも、信頼関係は欠かすことができない。ワンダーラストでは、仲間同士の「信頼」を守りながら未来へと挑戦していく土台が今ここにある。


ワンダーラストの仲間たち。


2-4.  やりたいことが見つかっていない人へ―自分のミッションにぶつかる機会をつくる


現代の日本に生き、「自分は真の幸せを見出せている」と言える人がどれだけいるだろう。


世の中の大多数が正解とみなす道を辿って行けば、一定水準の生活や幸せが保障されているかもしれない。しかし、それは本当に自分が望んだ未来だったのだろうか。今、目の前にある仕事は、そもそも本当にやりたいことだったのか。


現実は、(声にするもしないも)人生に確固たる足場を持てず悩む人は多くいる。そういった人たちにこそ、伝えていきたいことがあると堀江は語る。


「僕の場合は、特段すごく頭が良いわけでもなかったし、めちゃくちゃスポーツができるわけでも、めちゃくちゃ努力できる人でもなかったんですけども、いろんな選択肢、自分のミッションというものにぶつかる機会だけはいっぱいあったので、そういうもののおかげで自分のやりたいことを見つけて、いまは正直すごく幸せなんですね。やりたいことが見つかっていない人たちには、もっとたくさんの価値観や環境と触れ合うことをどんどん積極的にやってほしいなと思いますし、その代表的なものとして、旅っていうものをおすすめしたいと思っています」


これまで数多くの国を訪れ、また、数多くの国の人々を招き入れてきた堀江。物理的にも心理的にも、そうして国境を越える体験を経てきたからこそ見えてきたものがある。それは、どの国にもそれぞれの当たり前があり、ときとしてそれが、人生の可能性を阻む大きな制約となっているということだった。


たとえば、発展途上国に生まれた人は、お金がないことで人生に制約をかけられている。一方、日本では、特有の空気感が人々の可能性を奪っていた。


「僕は今まで本当にいろんな国に行って、日本は世界一同調圧力が強い国だと思ってるんですね。空気を読めとかが半端ない国だと。あれは本当に不幸だと思うんですよ。それに気づかないと、ある程度影響を受けたまま人生を歩んじゃうので、なかなか道から外れることってできない。そういうことができないことが、僕は貧困と同じくらい不幸だと思うんです。だから日本の場合であれば、実は道から外れてみても、そんなにみんないじめてきたりしないから大丈夫だよっていうことを伝えたいと思っています」


社会って、きっとこうなんだろう。人生って、きっとこうだろう。多くの人が常識と呼ばれるものに縛られている。けれど、ひとたびほかの国を訪れ、そこで暮らす人々の価値観を知ってみれば、自分が当たり前だと思っていたものはどこにもないんだということを思い知らされる。


いかに自分が狭い枠の中で生きてきたのか。それを知るきっかけがあるだけで、どれだけ多くの人の人生が花開いていくだろう。


価値観という名の枠を外す旅。それを、旅のスタンダードに変えること。それにより、もっともっと多くの人が幸せな人生を歩めるようにと、ワンダーラストは願っている。



2019.08.09

文・引田有佳/Focus On編集部



編集後記


異文化は困惑か。


私たちは今、ニュースを通して世界中の様子を手に取ることができる。地球のどこでどんなことが起きているのかは、自らの手のひらの中にある。


おかけで、どの国の人と出会ったとしても、ある程度の前提知識やイメージを備えたうえで触れ合うことができる。日本の人、アメリカの人、中国の人……というように、私たちは「●●の人」へのイメージと態度を予め構築している。


しかし、互いのことを深く知り合う過程において、しばしばそれが虚像であったことに気づくことになる。構築していたイメージとは異なる状態である「●●の人」が目の前にいて、それが無用なものだったと気づくような経験をしたことがある人は少なくはないだろう。


それでも下手すると(あるいは、そうすることが楽だからか)、事前に構築されたイメージを無理やり当てはめ対応しようとするものだから、ときに歯がゆい関係を生んでしまう。「●●の人」のありようを決め込んで触れ合い、痛い目にあう。


予め持っていた自らのイメージの眼鏡を通して、他人と相対してしまう人間の性。それは国を越えた人との触れ合いだけでなく、人が生きる上でのすべてにおいて存在しているのではないだろうか。


これまでFocus Onが出会ってきた方の中でも、世界を目にして来た人は、「同調圧力の強い日本」について語ることが多い。正しい姿ではなく、誰かが決めた集団のイメージにおいて生きる道を選択している人が日本には多いのだと。


「良い大学」、「良い会社」といった価値観あたりが、これにあたるものと言えるだろう。


イメージに則ることこそが、自らの人生であると無意識に選択してしまうこと。「これがいい人生だよ」。自己が踏み出す一歩へ、自分のものではない無音の声がある。果たして、今、あなたが手にした選択は自分の意思が決めた一歩と言えるだろうか。


ここに、海外留学の経験が学習動機にいかに関わるかを通して、自らの内発的な意思による行動決定について調査した研究がある。


総じて,留学の経験は留学生に学習の動機の深化と具体化をもたらし,自己調整と同一化を図る場となし,内面の成長を促す「関係性」を築き「自己効力感」を得て「自律性」を高める機会としていることが考察される。

―甲南大学国際言語文化センター教授 原田 登美


海外留学の経験により、人は自らの行動へ自律的になるのだという。誰かの声に引っ張られることなく、自らの意思で決めて行動する人生を得るために、留学は良き機会となり得るのだ。


確かに堀江氏も留学を通して、自分が何に生きるかに確信を持つに至った。「世界を仲良くさせる」。その思いが、海外と直に触れ合うたびに深化し、具体化していく様子を、本ストーリーでは目にすることができる。


これは、もしも堀江氏が世界に触れず遠巻きにいたならば、成し得なかったことでもあるようにも思える。直接世界と触れたことで、世界が形を、色を帯び、立体化されていった。手触り感のある世界となっていったからこそ、堀江氏の人生はそれに比例して鮮明になっていったのではないだろうか。


だから今堀江氏は、しつこくも自分の人生を生きられる。


世界を知り、体をもって理解しつづけることで、自分の人生が何であるかを見つけ、実感に変えていくことができる。世界に手を触れることは、自らの人生に一歩を踏み出すための湧きあがる感情と行動をもたらしてくれる。


世界は狭くなった。だからこそ、深めること。触れてみて、その形を感じ取ること。


堀江氏の人生には、私たちが自分の人生に生きるヒントが眠っている。



文・石川翔太/Focus On編集部



※参考

原田登美(2008)「留学経験は学習動機にいかに関わっているか--『自己決定理論』に拠る『甲南大学Year in Japanプログラム留学生』の留学と日本語学習の動機の変化」,『言語と文化』(12),pp.151-171,甲南大学国際言語文化センター,< http://doi.org/10.14990/00000470 >(参照2019-8-6).




株式会社ワンダーラスト 堀江健太郎

代表取締役

1985年生まれ。東京都出身。外資系コンサルテイングファームにて5年間、戦略・組織コンサルタントとして活動。その傍らで200名超の海外旅行者を自宅にてホストし、訪日外国人向けのNPO法人の立ち上げの後、”旅を通じて人々の心から国境をなくす”というミッションのもと、2013年6月に株式会社ワンダーラストを創業。

http://www.wanderlust.co.jp/index.html


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