Focus On
留田紫雲
株式会社VSbias  
代表取締役社長
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orきっと誰しもまだ知らない人生の選択肢を持っている。
地域差や経済的要因による教育格差を感じやすい地方において、子どもたちを応援すべく学習塾事業を展開する株式会社ベストコ。現在、東北エリアを中心に109教室*(*2024年5月時点)を展開する同社では、離職率が高いとされてきた塾業界において、講師が教育に集中できる働きやすい環境づくりに注力し、離職率を下げることで「家計にやさしい個別指導」を実現してきた。同時に、創業当初からICT活用を前提とした体制を構築し、より多くの人に学びの機会を届ける教育DXを進めている。
代表取締役の井関大介は、秋田大学教育学部を卒業後、福島県を中心に学習塾を展開するベスト学院株式会社へ入社。企画部長、取締役を経て、2009年に株式会社ベストコ(旧 株式会社Global Assist)を創業した。同氏が語る「人生の学び」とは。
目次
オンラインで無数の教材と出会える時代、有償無償を問わず、いまや誰もが「学び」にアクセスしやすくなっている。とはいえ、理想的な教材さえあれば勉強はうまくいくわけじゃない。目標や計画の立て方が分からなかったり、モチベーションが続かなかったり。思った通りにいかない勉強のプロセスにこそ、尽きない悩みが生まれてくるものだ。
現代の学習塾は、「学び」そのものを提供するだけの場ではなくなりつつあると井関は語る。
「塾産業って、僕はもう『教える』というところから価値がシフトしていて、『どうゴールに伴走するか』が問われるようになっているのかなと思っているんです」
東北エリアを中心に「ベスト個別」、「ベスト個別 motto」などの学習塾を展開する同社では、目標達成にきめ細かく寄り添える個別指導を提供。通常、クラス指導よりもコストがかかり価格設定が高くなる個別指導だが、同社では講師の働きやすさに着目し、離職率を下げるというアプローチで採用・研修などにかかるコストを削減し、高品質かつ低価格なサービスを実現してきた。
具体的には、創業当初からICT活用を重点的に進め、映像授業の実施や授業外での業務を効率化、現在はより少人数の講師でも指導を行えるようにする学習アプリも開発し、自社内にて導入済みであるという。
「子どもたちの質疑に答えたり、分からないことを噛み砕いたり。それから子どもたちって学習の悩みだけではなく、青春の悩みをたくさん抱えていて。好きな子がいるとか、部活動で喧嘩したとか、保護者様とこうだとか、学習ってそのような学生生活の中にあるものなんですよね。それらの悩みにも寄り添うことによって、子どもたちの居場所を作ってあげるという考え方で運営しています」
家計にやさしい個別指導が普及すれば、地方に住む子どもや、経済的問題により受講を諦めざるを得なかった子どもにとっても教育環境の選択肢が広がることになる。そうして少しでも多くの生徒を応援することを、ベストコは目指している。
「2009年に起業して、2011年に東日本大震災が直撃して。その時に岩手では町から高校がなくなってしまったり、遠くまでバスで通わなければいけなくなった子たちが出たりとか、そういった状況を僕たちもリアルで目の当たりにして、やっぱり環境がなくなるってすごく大きなことなんだと思って。コロナ禍でそれが一段と加速して、たくさんの塾がなくなったと思いますし、僕たちが子どもたちに何ができるんだろうかと考え直すきっかけになりました」
コロナ禍においても教室の撤退はなく、子どもたちの学習環境の選択肢を増やすことに貢献しつづけてきた同社。今後はさらにその流れを加速させていくという。
「今は100単位の教室でかなりテクノロジー投資をしていますが、これがやっぱり500教室となれば各教室にかかるコストもさらに低くなる。開発費やマーケティング、システムのコストは規模の経済がものすごく効くので、逆張りで塾を増やそうと思っているんです」
教室を増やすことにより、一教室あたりのコストを下げる。それにより、社員の給与に還元するなど教育に携わる人の所得を上げていく。インフレで塾単価が上昇しつつある時代だが、塾に通えない子どもたちのためにも、少しずつコスト構造を変えていく。
教育産業のより良い未来を描くベストコは、学びの機会と環境の在り方を創造しつづける。
まだインターネットもない時代、子どもの頃はおもちゃのモデルガン一つで尽きない遊びを楽しめた。目の前にある無数のパーツのうち、どれをどう使って改造するか。より遠くまでBB弾を飛ばしたり、空き缶を貫通するほどの威力を持たせたり。近所のプラモデル屋に足繁く通っては、少しでも良い状態とするために自分なりの試行錯誤を繰り返す。
ラジコンやガンプラ、ミニ四駆など、プラモデル全般に魅了された少年時代だったと井関は語る。
「幼稚園ぐらいの時から工作がまぁ好きな子で、小学校ではもちろん図工が一番好きだったし、料理とかも大好き。とりあえずものを作ることが大好きで。作る工程だったり、創意工夫することが好きだったんでしょうね」
ものづくりにのめり込んだきっかけは、おそらく父にある。幼い頃から買い与えられるおもちゃの中に、やたらと何かを組み立てて遊ぶものが多かった。手が器用で絵が上手く、音楽や写真も好んでいた父は、今思えば多趣味な人だったのだろう。
振り返れば、一緒に遊んでもらった記憶は数えるほどしかないが、それは父が歯医者としていつも忙しそうに働いていたからだ。
「父親と遊んだ経験ってほとんど思い出せないくらいで、なんか仕事しかしていない人だったなぁと思いますね。まぁ開業医だったので、何億か借りて土地から買って、家と会社を建てていきなり大きく経営していたから。当時はみんなそういう風に開業するのがスタンダードだったのだろうと思うのですが、結構借金があったとも聞いたことがあります」
父の苦労の上に築かれた立派な家業がある。親族含め、昔から周囲には子どもが跡を継ぐのが自然だろうというような空気感があった。
「生まれた時から父親が農家の長男じゃないですか。もともと農家だったのですが、祖父が『これから農家は大変だから』と父親に勉強だけはさせたらしくて、開業して歯医者になっていて。『当然家業を継ぐよね』と周りの親戚はそう言うし、当時は両親もそう言っていたから、『歯医者になる人生なんだろうな』と僕も高校3年生まで思っていたんです」
生まれ育った実家は、秋田の田舎町にある。たくさんの産業がある街ではなかったように思う。少し離れた祖母の家に至っては360度を田んぼに囲まれていた。そんな環境ゆえに情報もなく、行動範囲も限られていた。
「歯医者について別に調べたこともなかったし、業界分析もしたことがないし。そもそも田舎にいると、職業に触れる機会なんてないんですよね。当時はネットもないし、知っているのはデパートの販売員、警察、消防士、公務員、学校の先生くらい。これはものすごく笑われてしまうけど、たとえばパイロットとかテレビ局の人って、勝手に東京の人がやるお仕事だと思っていたんですよ」
テレビで観る華々しい職業の数々は、どこか違う世界の話だと信じて疑わなかった。自分はひとまず歯医者になるために、家から通える唯一の進学校である県立横手高校を目指すこと。そのために必要な偏差値を維持することが、幼少期からのミッションだった。
「勉強の成績も上位には入るけど、1位とかになるような努力はしないタイプで。歯医者になる学力をキープしないと父親に怒られるので、それを回避するために付け焼き刃で勉強しているだけだから。競争を好むタイプではなかったし、負けず嫌いみたいなタイプでも全然なかった。熱中しないタイプだったんですよね」
自ら進んで勉強するモチベーションがあるわけではないし、友だちと勉強や運動で競い合うことに燃える方でもない。ただ周囲の大人に言われるがまま、歯医者を目指している。自分自身にあまり興味がなかったのか、あるいは自信がなかったのかもしれない。
プラモデルを改造するように、本当は人生だって自分なりに思い描けていいはずだ。けれど、当時はそれ以外の選択肢を知らなかったし、深く考えるような機会もなかった。
2-2. 大好きな先生との出会いと別れ
父の厳しい監督により、目標の進学校には無事入学できた。しかし、心から望んで入ったわけではなかったからなのか、入学した途端に勉強への集中力はすっかり切れてしまっていた。
「高校ではクラスで1番成績のいい子が自動的に級長に割り振られることになっていて、僕は入学直後の級長になったんです。ところが入学して最初の定期テストで、英語が最下位だったんですよ。なんと14点しか取れなかった。つまり、合格した瞬間一歩も勉強しなかったんだよね。そういう悪い子でした(笑)」
高校では大学受験に向けたスパルタ指導が待っていた。授業中はよく当てられるだけでなく、数学ではクラスの4割が赤点を取るほどテストも難しい。先生たちはいい人だったので良かったが、先生たち自身も偏差値や合格実績などで厳しく評価される環境は大変そうでもあった。
そんななか特別印象的だったのは、美術の先生との出会いだった。
「授業の合間にすごく本質的な話をする人で。ある美術の授業で、僕がすごく技巧的な絵を描いていたんですよね。そしたら先生は『外側に見える技巧的なことって、内面を伝えられないよね』というような話をしてくださって。デッサンの仕方とか、物事の捉え方とか、そういうことって子ども心に初めて言われたし、そういうことを言う大人もいるんだなと思って」
先生と何の話をしていたか今となっては記憶も定かではないが、その時間が自分にとってとても心地よいものだったことは間違いない。大好きだった先生は、2年生の時に人事異動で隣の女子高へと行ってしまうことになる。
「今思えば、その時にはおそらく具合があまり良くなかったんだと思います。転校して3か月後くらいに入院されて、すい臓がんだったんだよね。お見舞いにも行ったんですが、あっという間に痩せられて。当時30年前くらいだから、おそらくもう発見された頃には相当進行していたんでしょうね。半年ぐらいで亡くなられてしまったんです」
身近な人が亡くなる体験は、もしかしたら人生で初めてだったかもしれない。慕っていた先生との別れは突然だった。
「病院にお見舞いに行った際、先生は毎日具合も悪いのに、小さなカードに絵を描かれていて。先生の奥さんがそのカードを何枚かくれた覚えがあるんですよ。何かお話をして、2回目に行った時にはもう会えなかったんじゃないかな」
人生の転機が訪れたのは、翌年のことだった。高校3年の夏、父が偶然「歯医者の30年後」といったテーマのセミナーに参加して、今後ますます淘汰が激しくなる歯医者という職業についての話をされた。
「皆さんご存じの通り、歯医者ってワーキングプア化が叫ばれているじゃないですか。コンビニよりも数が多いくらいで。それを30年前に父親が聞いて、30年後の歯医者は食えないと。歯学部に行くのも結構お金がかかるし、そのあと研修医になって、国家試験も通るかどうか分からない。合計で何千万円とかかるんだけど、これから淘汰の時代に入るのにちょっと父親がやってるからぐらいだと難しいよねと話をされたんです」
その日、父が提示した選択肢は2つ。本気で歯学部を目指すか、あるいは歯医者にはならなくともどこかの国立大学を本気で目指すこと。2つを天秤にかけた時、頭に浮かんだのはものづくりが好きな自分、それから亡くなった美術の先生のことだった。
「美術の先生っていいなと思ったんですよね。自分の好きなことを仕事にして、制作もして、とても素敵に見えたんです。数学の先生とかも素敵なんだけど、偏差値を上げないといけないからすごく大変だよねと当時は思っていて。美術ってそれがないじゃないですか。だから、自分のライフワークである美術をやりながら、子どもたちに美術を教える。なんていい職業なんだという思いが、高校3年の9月に再燃して」
私立理系の歯学部志望から、国立文系の教育学部志望へ、高校3年の9月に進路を変更することは難しい。それでも調べると、美術の先生になるコースならセンター試験(当時)の点数比重が大きく、合格の余地があると分かった。
迷わず秋田大学教育学部を第一志望にする。あとから考えても、それは人生最大の分岐点だった。
美術部員でもなく、自分で制作をしてきたわけでもない。ただ美術の先生という仕事に憧れて、学力と付け焼き刃のデッサン練習で試験に挑んだ結果、幸か不幸か合格し、春から大学生として勉強が始まった。そこでは入学早々、現実を目の当たりにすることになる。
「びっくりしたんです。周りの人はみんな多摩美術大学とか武蔵野美術大学とかを受験しているような人たちで。つまり、中学校からデッサンの塾とかに通ってきた人、僕からしたらプロなんですよ。もう世界が違う。その中に幼稚園児が1人入ったような状態でした」
どうやら勝手な勘違いをしていたと知る。美術で学校の先生になろうとする人は、一定勉強ができる人。対して、高校以前からきちんと美術を学んできたような人たちは、美術作家などプロとして活動していくのだろうと思っていた。
実際は小中学生の頃からきちんと基礎を学び、賞を獲ったりしている人たちが集まっていた。気づいた頃にはもう遅い。
「デッサンの授業はもちろん一番下手だったと思うし、日本画や洋画などの絵はどう考えても壊滅ですよね。授業の最後には、先生が全員分の絵を並べて講評してくださるのですが、横に並べてほしくもないくらい。唯一対等に闘えたものは、デザインの基礎的理論を学ぶ授業、それから彫刻でした」
彫刻を始めるには、大量の粘土やそれを支える木材などがいる。必然的に大掛かりな施設がなければ作業が難しいため、美術をしっかり学んできた人も、彫刻だけは大学で初めて触れるというケースが多いようだった。
1年次からの研究室選びでは、自然と美術的なバックグラウンドが強くない人ほど彫塑室に集まるようになる。
「彫刻は細々とやっていたんだけど、これがまた軒並み普通という感じで。最後の方は彫刻で賞を獲るまで頑張ろうと思って、卒業せずに大学に残っていたんですよね。一応先生の教えのおかげで県の美術展の賞をいただけたから良かったのですが、全然作家になれるようなレベルではなかったんです。それより大学時代はどちらかというと、社会勉強的なアルバイトに明け暮れていました」
一生懸命に勉強するよりも、大学に入ったらやってみたかったことがある。飲食店の厨房や、スキーのインストラクター、ほかにも夜勤で工事現場の交通整理やテレビ局など、数えきれないほどのアルバイトを経験していった。
「スキーのインストラクターは泊まり込みのアルバイトで、スキー場の屋根裏部屋みたいな汚いところに押し込まれるんだけど、滑り放題なんですよ。日中は東京から来た子どもにスキーを教えて、休み時間と朝晩はずっと滑り放題。だから、2、3週間山籠もりしたりして。お金はもらえるし、スキーはし放題だしで遊んでばかりで、そういう人生のツケをあとで清算しなければいけなくなるのですが……」
アルバイトで稼いだお金でスキーをして、足りないお金を稼ぐためまたアルバイトする。それをひたすら繰り返し、余った時間で彫刻をする。大学生活はそんな風に過ぎていった。
気ままに好きなことをして過ごしていたが、大学3年生にもなると将来を意識せざるを得なくなってくる。教育学部生なら誰もが通る道、教育実習が始まるからだ。
「卒業に向けて学校の先生になろうかなぁと思っていたわけですよね。ところが、学校に美術の先生は一人しかいらないんですよ。そもそも皆さん65歳までしっかり勤められますし、当時は今より先生が人気で採用が少なかったんです。募集があったとしても若干名という謎の言葉が書いてあって、だいたい講師なんですよね」
不安は少しずつ大きくなる。いざ教育実習に行ってみると、それまでアルバイトでは自由に創意工夫できていた分、あらかじめ教えなければならないテーマや内容が定められている先生という職業が合うのかどうか、分からなくなりつつあった。
「学校はすごく大変で、若干名しか募集がなくて。さて、この先僕はどうやって生きていくんでしょうかという状態になるんですよ。途中でやっぱり歯医者になっておけばよかったと強く思って、歯学部に入り直そうかと勉強した時期もあるんです。それぐらい将来には不安を抱えていた時代でしたね」
進路が思うように定まらず、何かしなければと焦燥に駆られる日々。自分が何に向かえばいいかも分からなくなっていた頃、ひょんなことから先輩の紹介を受け、とある学習塾の手伝いをすることになった。
「ここで出会った子が、偏差値60以上の秋田高専(秋田工業高等専門学校)に行きたいということで。当初の偏差値からすると、かなり大逆転しなくてはいけない状況だったんです」
家庭教師のアルバイトなら、大学1年の頃から経験したことがある。合格、不合格どちらの結果も見てきたが、今回のケースはなかでも最も難易度が高いミッションだった。さらに、もう一人慕ってくれる生徒も受け持つことになり、どうすれば二人が受験を突破できるだろうかとあれこれ模索するようになる。
自分なりの指導案や教え方のマニュアルを作成したり。自費でテキストを買い漁り、オリジナルの教材を作ったり。気づけば二人の指導にのめり込んでいる自分がいた。
「結果、二人とも合格してくれて。そしたら、お母さんにはものすごく泣いて感謝されるし、その子も『人生が変わりました』みたいなことを言ってくれたんです。もともと歯医者にならず、美術も全然できず、学校の先生にもなれなくて、人に必要とされずにこれからどうするのという時に、人に泣いてもらえるぐらい貢献できたという経験は、自分の中では大きな変化だったんでしょうね」
必要とされ、自分なりに考えたやり方により、生徒の合格までを支えることができた。社会に貢献できたような手応えを感じたのはもちろん初めてで、自分の存在価値を認めてもらえたような感覚がした。
学校ではなく塾で教える。学習塾への就職にこそ、自分なりのやりがいや社会に貢献できる道がありそうだった。
早速各社の採用情報を調べ出す。当時は自分なりの教え方にもこだわりを持っていて、マニュアルが整備された大企業より、縛られず自由に創意工夫ができそうな中小零細企業が良いのではないかと考えていた。最終的には東北地方を中心に学習塾を展開するベスト学院から内定をもらい、就職活動を終えることにする。
なんだかんだ7年ほどを過ごした大学に別れを告げ、社会人生活が始まった。
「入った会社では学習塾を20教室ほど展開していたんですよね。当時30人ぐらい社員がいて、パソコンが社内に数台しかなかった。パソコンが少ないからもちろんマニュアルなんて存在しない。何もかも口伝え。当時は大変でしたね」
職種も教務職で採用されたと思っていたが、入社後には教室の新規開発などを任され、チラシ作りや訪問販売をしていくことになった。
「その部署に入ったら10日で先輩がお辞めになられて、1人部署になりまして。1人で20教室のチラシを作ったり、DMを作ったり、教室を作ったりさせていただけることになり、好き勝手に自分でやれるという夢が自動的に叶ったわけです」
先輩もおらず、教えてくれる人も総務部長と社長がメイン。多くのことを自分で勉強しながらやるしかない環境だ。もちろん会社にノウハウがあるわけでもないため、「船井総研のセミナーに行ってこい」と送り出された。
セミナーに赴くと、自分と同じ25歳くらいの女性が前に立ち、年配の経営者含む100名ほどの聴衆に対して講義を行っていた。
「今でも覚えているんですが、その方が『私は入社してから3つ椅子が並んでいたら全部ベッドに見えます』と仰っていたんですよ。当時はそれぐらいハードワークの会社だったらしくて、『それくらい働いてきたので、今日皆さんの前でこういうプレゼンテーションができます』と言っていたことが記憶に残って。『そっか、社会人になったら寝ないで働くんだ』と」
仕事とはどうやらそういうものであるらしい。だから、父もあんなに仕事をしていたのかと急に理解したような気持ちになる。あとから思えば、もちろんそれは一面でしかないのだが、当時はこれまで散々遊び呆けてきた分を取り戻せるくらい、誰より働かなければと考えた。
「これだけサボってきて、留年もして、学校の先生にもならなくて。ほかに勤める場所がないから、しがみついてでもここで生きていこうと思っていたのかもしれない。背水の陣だったんですよ。社会に出てツケを払わないといけないと思っているから。子どもたちに言いたい、『ツケは払うぞ』と(笑)」
1人部署だが、まずはできることをやってみる。とはいえ、本腰を入れ営業活動を始めると、学習指導と並行して営業している同僚よりも圧倒的に割ける時間は多いため、営業成績が社内で比較的上位になった。
新規教室数も増え、売上も上がってくる。自分の働きがダイレクトに会社の成長に繋がる規模だったこともあり、成果が出るにつれて自然と会社をより良くしていこうと考える機会は増えていった。
「売上2億だった会社が上昇気流に乗って、毎年1億ずつ伸びていって。そうやって大きくなっていくなかで、組織化されていき、パソコンも増え、マニュアルを作ろうとか会社らしくなってくるんですよね。その過程で経営の意思決定メンバーに初年度から入れてもらえたので、ラッキーでした」
入社3年目には会社として福島県いわき市への進出が決まり、いわきのブロック長を任される。当時は15人から20人程度の生徒を一度に指導する、いわゆるクラス指導を行う塾を運営していたが、より現場に近く働いているとその限界も見えてきた。
「成績優秀な子はクラス指導でいいのですが、本当に勉強で困っている子たちというのは個別で見てあげないと成績は上がらないんですよね。お月謝を納めて塾に行って、授業を聞いているだけになってしまう。これがクラス指導の難しいところで、この子たちを救ってあげるにはもう個別指導しかないなと現場にいて思っていたんです」
課題はほかにも見つかった。一般論として、成績がいい子の家庭ほど教育費をかける傾向にあり、勉強が苦手な子の家庭ほど少ない教育費をかける傾向にあった。どうしても個別指導は高額になってしまうため、本来それを必要とする生徒に必要な機会を届けられないというジレンマが存在した。
「現場で感じる所得格差と教育格差って、ものすごく生々しいんですよ。これを少しでも解決するためにお手伝いができるといいなと思って、作ったのが『リーズナブルな個別指導』という考え方で、それが現在のベストコにも繋がっていきました」
個別指導をすれば成績が上がると確信がある。しかし、それにはコストがかかる。1人の講師が20人に教えるのと3人に教えるのとでは、当たり前ながらコストパフォーマンスもビジネスロジックも全く違う。
当初は社内の新規事業として個別指導部門を作り、暗中模索しながら授業やオペレーションを構築していった。最初から順風満帆とはいかなかったが、市場シェアとしてはまだ伸びしろがある時期であり、少しずつ手応えを感じられるようになった。
2009年、部門を分社化する形で株式会社ベストコ(旧 株式会社Global Assist)を創業。従来よりも安く個別指導を提供し、勉強ができる子をもっと増やしたい。原点となる思いはシンプルだった。
「本当に勉強で困っている生徒さんに教育を届けたいという軸が一つ。それから15年前の教育業界って離職率がものすごく高くて、人が大量に辞めていたんです。非効率な働き方だし、長時間労働で年間休日日数も少なかったり、営業職にさせられて自分のやりたいことができなかったり、まずはこれをどうにかしないと良い先生は残らないよねと。教育を志す人がきちんと教育で食べていける会社を作りたいという、この二つの軸からスタートしました」
学習機会の格差を少しでも減らし、より多くの子どもたちが自由で可能性あふれる人生を謳歌できるようにするために、ベストコは一人ひとりの子どもの歩みに寄り添っていくと決めていた。
長年、教育産業の中に身を置いてきた立場から、今この時代を生きる子どもたちにとっての「勉強する意義」について井関は語る。
「弊社のパートナーの方に、会津の喜多方という地方で農業をやりながら、東京のベンチャー企業でも完全フルリモートで働いていらっしゃる方がいて。工学系の大学を卒業されて会社にお勤めになって、すごく広い土地に家を建てて子どもたちと犬と一緒に暮らしていらっしゃるのですが、ものすごく豊かだと思うんですよね。それってやっぱり勉強してきた結果、『自由』なんだと思うんですよ」
たとえば英語を学べば、それを使って働くという選択肢が生まれるように、勉強することによって広がる将来の選択肢がある。学力の壁を取り払ったり、望んだ仕事に就きやすくなったり、自由な未来を勝ち取るために勉強は一つの手段になる。
「一方で、僕自身が学生で秋田にいた頃そうだったように、根本的に仕事を知らないからこそ何のために勉強するのかが分からなくなるんですよね」
働くとは、何もお金を稼ぐためだけにあるものじゃない。ほかにはないエキサイティングな物事に触れられる瞬間があり、子どもから見ても面白いと思える発見がたくさんあるはずだと井関は考える。
「本当は世の中のいろいろな会社が掲げているミッションやビジョン、そのアプローチの仕方ってすごく面白いものがあって、働くことでワクワクできることもたくさんあると思うんです。それらが子どもたちに届く世の中になればいいなと思っていますし、これは現在の事業の先に僕たちが成し得たいことの一つでもあります」
尖った情報ばかりがバズりやすいインターネットの時代ではあるものの、平凡でも実は多くの人が感じている仕事の面白さややりがい、満足感がある。それらの情報と子どもたちとのあいだに接点を生み出すハブとして、教育産業にはまだまだできることがある。
子どもが大人になることに対して諦めを抱く世の中から、夢を持ちワクワクできるような世の中へ。ベストコは、自由に未来を勝ち取るための勉強と人生に伴走し、支援しつづける。
2024.5.22
文・引田有佳/Focus On編集部
人生の選択肢を知らず、熱中できるものも持たずに学生時代を過ごしたと語る井関氏。知らないだけでもっと世の中にはワクワクするような物事がたくさんあるのだと、知ることができさえすれば、無為に過ごした時間は違ったものになっていたかもしれない。そんな思いが、今、ベストコの教育事業の根底にも流れている。
未来の可能性にあふれる子どもたちには、これからたくさんの人や物事に出会い、面白く充実した人生や仕事を手にするチャンスが無限にある。
自由に描けるキャンパスに、いかに筆を入れるのか。時間をかけて選択を吟味したり、いろいろ試して新鮮な感情を見つけていくこともまた、子どもに許された特権だ。
ベストコは、情報や機会が制限されがちな地方においても、子どもたちが意思を持って人生の自由を謳歌できるよう、学びの基盤となっていくのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社ベストコ 井関大介
代表取締役社長
1975年生まれ。秋田県出身。秋田大学教育学部卒業後、ベスト学院株式会社へ入社。塾講師を志すきっかけとなったのは、アルバイトで得た「貢献実感」。生徒や保護者から涙を流して感謝いただいたことで自分の将来に改めて向き合い、「この道しかない」と就職を決意。入社後は企画部長、取締役を経て、2009年株式会社Global Assistを創業。2022年「株式会社ベストコ」へ社名変更。