目次

世界を舞台に、人の成長を解き放つ ― 人生やキャリアに「異文化体験」を

当たり前を問い、自ら変化を起こす。だからこそ、人生は楽しくなる。


「世界を楽しむ (Explore the World)」というビジョンを掲げ、留学をはじめ世界で学ぶ機会を提供し、人の成長に伴走するSEKAIA株式会社(旧 株式会社ICCコンサルタンツ)。エージェントとしては国内で唯一オーストラリアのトップ8大学「Group of Eight(Go8)」と正式提携している同社では、高校留学から大学・大学院留学、多くの起業家やリーダーを生み出す「IBPビジネス留学」、法人研修やインバウンド向けサービスなど、幅広く事業を展開。人生とキャリアに新たな価値観をもたらす経験を支援しつづけてきた。


取締役副社長の万出恵は、高校3年間をニュージーランドへ留学。大学卒業後、化粧品ベンチャーにて商品企画、バイヤー、ブランドマネージャーとして従事したのち、デザイン専門学校での職を経てフリーランスになる。マーケティングコンサルティング、女性の働き方改革、社団法人設立、経産省での中小企業のブランドPR支援などに携わり、2014年にSEKAIA株式会社へと入社した。同氏が語る「世界と自分」とは。






1章 SEKAIA


1-1. 世界を楽しむ (Explore the World)


異文化の中で未知に触れ、世界という舞台に一人で立つ。留学は「行くこと」がゴールではなく、そこから始まる価値観変革や成長こそが人生を変えていく。


人生の転機としての留学を、いかに彩り、豊かな未来へとつなげていくか。同社では、留学を人材育成の一環として位置づけ、現地へ送り出すまでだけでなく、留学中・留学後のサポートにも力を注いでいると万出は語る。


「留学が留学の体験だけで終わってしまってはもったいない。留学経験をその後の人生にどう活かしていただくか――この点にとてもこだわりを持っています。たとえば、IBPビジネス留学では修了生のコミュニティがあり、そのコミュニティマネジメントもやらせていただいています。留学に行って良かったねというより、留学に行って人生が変わった、変わったあとの人生も一緒に歩んでいける。そこに、この仕事の一番の醍醐味があるのではないかと思っています」


35年以上の歴史を有し、海外教育機関との強固なネットワークや豊富な実績を強みとする同社。日本における留学斡旋分野のパイオニアでありながら、同時に社会のニーズや潮流に合わせ、その体験を再定義しつづけている。たとえば、長年の実績を誇るプログラムを時代に合わせて進化させると同時に、新たな価値を提供する取り組みにも力を入れている。


「35年以上の歴史を持つ当社の基幹プログラムを、より現代のニーズに即した形へと常に磨き上げています。また、その修了生を対象に起業家育成を目的とした新プログラムを立ち上げるなど、留学後のキャリアまで見据えた支援を強化しています。オーストラリアのトップ8大学『Group of Eight』との数十年にわたる強固なパートナーシップを維持する一方で、近年は海外から日本へのスタディツアーといったインバウンド事業にも注力し、学びの機会を多角的に提供しています」


こうした取り組みを通じて、時代の変化を的確に捉え、留学、教育という体験価値を常にアップデートしつづけている。



2020年頃から始まった新型コロナウイルスの世界的流行により、一度は途絶えた国外移動だが、現在はその揺り戻しが起きている。


V字回復を遂げたインバウンド需要に呼応し、日本で学ぶ外国人向けのプログラムが活況だ。日本企業でのインターンシップや、クリエイター・インフルエンサーを育成するプログラムなど多様なプロジェクトが生まれ、参加者も前年比で倍々に増加するなど広がりを見せていると万出は語る。


企業として新たなステージへと進みつつあることを受け、2024年12月にビジョンを「世界を楽しむ(Explore the World)」へ刷新し、2025年11月に社名をSEKAIA株式会社(旧 株式会社ICCコンサルタンツ)へと変更した。


「『世界を楽しむ』というビジョンには、グローバルや地球という意味での『世界』はもちろん、『人生』という意味合いも含まれています。一人ひとりがつらいことや大変なことがあっても、それらを楽しめること。そんな人が一人でも増えると、世界が変わっていくという思いを込めて、『世界を楽しむ』というビジョンは生まれました」


事業のみならず、組織としてもダイバーシティを推進する同社では、人々がのびのびと働き、生きていく場を提供していく必要があると考えている。


「海外のグローバル都市へ行くと、国籍にかかわらず、みんなが調和して自分らしく生きている場所がたくさんあるんです。日本もそうなったら面白いですし、どのみちそうなっていくはず。そのとき、日本という場所が一つの魅力的な教育コンテンツになると思っていて。さまざまな国の方が日本を訪れ、歴史や文化から学ぶ。同時に、それを受け入れる日本にもグローバリゼーションが流れ込んでくる。私たちは、そのプラットフォームになることができればと考えています」


国を越え、人々が学び合う。そうして世界を楽しむ人々が、さらに多くの人の視野を広げ、やがて大きな奔流を生み出す。国境を越えて行き交う人々が増える今、その接点をつくり出す同社の挑戦は、学びの連鎖で社会を変えていく。


新社名「SEKAIA(セカイア)」は、日本語の「世界(SEKAI)」と、
ラテン語で「〜の地、場所」を意味する接尾辞「-ia」を組み合わせた造語。
「世界を楽しむ体験が生まれる場」でありたいという、事業の本質と未来への決意を表現している



2章 生き方


2-1. 自分らしく世界を見る


ありふれた田舎の日本家屋に飾られた「モナ・リザ」の模写は、生前の祖父が趣味で描いたものだった。生まれたときには既に亡くなっていたので、祖父に会ったことはない。けれど、家族の会話や家中に飾られた絵の中に、その存在は強く息づいていた。幼い頃は、それが不思議で仕方なかったのかもしれない。よく「当たり前とされること」に疑問を持っては、親に尋ねていたと万出は振り返る。


「小さいときから、『なんで自分は自分で生まれてきたんだろう』みたいなことを、ずっと考えていたんです。どうしてママはママで、パパはパパなのか。どうして人は朝起きたら『おはよう』と言って、のどが乾いたら水を飲むのか。そんな当たり前のこと全てが不思議で、いつも親に聞いていたんです」


答えのない問いについて考えつづけては怖くなり、眠れなくなったりもする。当たり前を不思議に思う、いわゆる「女の子らしさ」や「かわいらしさ」への違和感も、そのうちの一つだった。


「母親がフリフリのレースや、キャラクターものの洋服を一切許さなかったんです。もっと黒とか紫とか、今思えばシックでおしゃれだったなと感謝しているのですが、そういった服の方が動きやすいし、あなたには合っていると思うと言われていて、私もかっこいい方が好きだなと思うようになって。でも、当時は声質や喋り方で『女の子らしいですね』と言われることが多かったので、それがすごく嫌だったんです。おそらくその反発もあって、ワンパクな遊びをしたい、男の子より速く走りたいと思ったりしていました」


気心の知れた友だちと過ごしたり、あるいは絵を描いたり文章を書いたりと、のびのび自分を表現できる場は昔から好きだった。一方で、見知らぬ人に囲まれたり、新しい環境に身を置くと、常識というフィルターを通して自分を見られる気がして不安になる。当時は今とは違い、人見知りで恥ずかしがり屋だった。


「今では新しい環境に行くのはむしろ好きなのですが、小さいときは慣れない場所や人前に出たりするのが恥ずかしくて、『すぐ泣く』と親によく怒られていました(笑)。おそらくいろいろな人にジャッジされることが嫌だったのかもしれません。『こう見られないといけない』『こうならなくてはいけない』みたいなプレッシャーが、子どもながらにあまり好きではなかったんです」


幼少期


小学校の中盤からは、中学受験に向けて塾に通いはじめた。「公立中学はあなたには合わないと思う」と、母が背中を押してくれたことがきっかけだった。


当時、周りに受験をする友だちはほとんどいなかったが、「たしかにありかもしれない」と思えた。もちろん、中学受験をすると高校受験が不要になるとか、制服がかわいいとか、やる気にさせるためのロジックもいくつか用意されていた。


「母親からはいつも『みんなと同じことをしなくていい』と言われていました。それは嬉しいときもあれば、嫌なときもあって。たとえば、みんなと同じ習い事を始めたいと頼んでも、母親からすると『みんながやっているからやる』は全然理由にならないという感じでした。逆に、みんなとは違う選択をしたときは、『いいじゃん、面白いじゃん』と言われて育っていましたね」


実際、受験して入ったキリスト教の私立中学は、想像以上に素敵な環境だった。敷地内の教会には、美しく大きなパイプオルガンがあり、広い庭にはいつもさまざまな花や植物が咲き乱れている。部活動は、入学前から惹かれていた筝曲(そうきょく)部に入り、3年間打ち込んだ。


「学校に茶室があって、そこでは茶道部と書道部と筝曲部が活動していますと、学校訪問のときに伺って、『すごく素敵だな』と思ったんです。茶道と書道はなんとなく想像できたのですが、お琴を弾くイメージは全く想像できなかったし、やっている人も少なさそうだと思って。そういったことをできるようになりたいと思いましたし、その頃から、王道からは少し外れたポジショニングの方が心地よいという感覚がありました」


みんなと違うストリームに行く。いつしかそれは、自分にとって自然で前向きな選択になっていた。その始まりは、世界を当たり前の「常識」ではなく「問い」で見ることだったのかもしれない。自分だけの感性を肯定し、楽しんでいく。自分らしく世界を見つめる生き方のベースが、そこにはあった。




2-2. ニュージーランドで触れた多様な人生


それまで習い事はすぐに飽きてしまうことが多かったが、筝曲部は気づけば夢中になっていて3年間やり抜いた。日本らしさというものを意識しはじめ、「日本と海外」という視点が生まれてきたのは、その頃からだった。


「いわゆる日本文化というものに興味を持ちはじめて。お琴を弾くときに指につける道具を『爪(琴爪)』と言うのですが、その爪ケースが着物の生地でできていたりして、すごく日本らしさがあるんです。そういったものを持てること自体が誇らしかったですし、一つの日本の伝統楽器を弾けるようになるのもすごく良いことだなと感じていました。楽譜も縦書きで漢字で書かれていて特別感がありましたし、とにかく楽しかったんです」


日本文化の魅力に惹かれる一方で、中学の英語の授業では、外国人の先生に発音を褒められたことがきっかけで、英会話の勉強に励むようになった。ちょうど中学1年生のときに引っ越した町の駅前に、英会話教室があったので通いはじめる。英語に慣れ、上達していくほどに、もっと実践で使ってみたいという気持ちが強くなっていった。


「中学3年生の夏休みに、英会話教室のチラシでホームステイのプログラムを見つけて、親にお願いして1か月間ニュージーランドに行かせてもらったんです。これが私の初めての海外経験ですね。パスポートを取ったのも、飛行機に乗ったのも初めてで、しかも一人での渡航でした」


ホームステイ先の家には、自分のほかにもフランス人の滞在者がいて、家から少し歩けばビーチが広がっていた。目に映るあらゆるものが新鮮で、日本の当たり前とは異なっている。何より習った英語を実際に使い、生活している自分がいることに心が震えるような感動を覚えた。


ふと、日本にいた頃、電車の中で見た「英語が話せると、10億人と話せる」という広告のコピーが頭に浮かぶ。それを目にした瞬間の感銘がよみがえり、実感へと変わっていった。


英語を話すことができれば、こんなにも多くの人と繋がることができる。世界中どこへだって行き、さまざまな国の人と友だちになることができるのだ。


「1か月間、ものすごくワクワクしながら過ごしたことが大きくて。当時、ニュージーランドから親へかけた電話で『帰りたくない』と言っていたそうなんです。私はあまり覚えていないのですが(笑)、母親は『そのときにもう覚悟した』と言っていました。案の定帰国してそのまま、高校は内部進学ではなくニュージーランドに留学したいという話になっていきます」


ニュージーランドのホームステイ先にて


海外留学なら、大学に入ってからでもいいのではないか。そう親には言われたが、大学で留学する人が多いなら、むしろより早く行くことに意味があると考えていた。


「小学校時代に『喋るのが遅いね』と言われたことがあって、コンプレックスに思っていたんです。かつ、みんなと足並みをそろえて同じことをやるのが苦手となると、みんなと同じことを、同じタイミングで、同じスピードでやっても劣るなと考えて。であれば、自分はみんなより早く新しいことをやらなければいけない、大学に行ってからでは遅いと、親にも伝えていました」


すぐに賛成してくれた母と違い、父は心配が勝ったようで大反対だった。毎晩しつこく説得を試みても、答えは「だめ」の一点張り。どうすれば父の心を動かせるだろうと、しばらく必死に考えていたとき、偶然一つの新聞広告が目に留まった。


「新聞で『高校留学フェア』という広告を見つけて、『これだ!』と切り取って親に見せたんです。『1回ここに一緒に行かない?』と頼んで行ったのが、当時ICCコンサルタンツ(現  SEKAIA)が運営していた高校留学フェアで。そこで相談に乗ってくれた社長をはじめスタッフの人たちが親切で、これだけ現地でもサポートがあって、きちんと信頼できるエージェントがあるならと、ようやく両親から許可が下りたんです」


現地の女子高に進学できることになり、寮生活とホームステイを交えつつ3年間を過ごす。つらく大変なことにも直面したが、両親の説得やビザの取得など、行きたくても行けない期間が長かった分、全てを楽しもうという覚悟ができていた。


留学中はさまざまな刺激を受けたが、なかでも衝撃的だったのは、ニュージーランドの人々の人生やキャリアに対する考え方だった。


「ホストファミリーのお母さんは40代だったのですが、会計事務所で働きながら大学に通っていたんです。もともとは別の仕事をしていたけれど、きちんと会計の勉強をして、大学卒業後は会計士になりたいから、今は会計事務所でアシスタントをやっていると話していて、すごく衝撃を受けました」


ほかにも現地では、離婚を経験している人や、結婚はしていなくてもパートナーとして一緒に暮らしている年配の男女を身近に見かけた。家族の在り方一つとっても、日本にはない自由があるようだった。


「人って何歳になっても勉強できるし、家族になれるし、みんな幸せそうだった。今まで自分が日本で当たり前だと思っていた生き方や、良しとされている生き方にとらわれる必要はないんだなと思って。それは今でも、自分の大きな価値観の一つになっていると思います」


日本の常識の外側へと踏み出して目にしたものは、どこまでも自由な生き方だった。土地が変われば、常識も変わる。だからこそ、絶対的な「当たり前」なんてこの世には存在しない。そんな感覚が、大切なものとして心に残りつづけた。




2-3. 企業は社会貢献のために


高校3年の進路指導では、先生から4つの道があると説明された。このまま大学に進学してもいいし、専門学校に進んでもいい。あるいは、就職して働いてもいいし、1年間ギャップイヤーでバックパッカーになるのもいい。ニュージーランドでは学歴にとらわれず、世の中を見て自分のやりたいことを決め、それから進路を選択してもいいのだと教えられていた。


当時、将来やりたいことはあいまいで、まして自分が企業で働くイメージも想像がついていなかった。ひとまず卒業後は日本に帰国し、大学生になることにしてからは、さまざまなアルバイトを経験していった。


「一番長く続いて熱中したのは、アジアン雑貨を扱う会社でのアルバイトでした。地元の商店街にある素敵なお店で、社長がすごくのびのびと働かせてくれる方だったんです。お店のトルソーに自分でコーディネートした服が上から下まで一式で売れたり、ディスプレイを変えたら売れていなかった商品が売れたりするのが楽しくて。ほかにも仕入れや値付け、経営について社長直々に教えてもらって、すごく学びが多かったと思います」


新規でカフェの立ち上げが決まったときには、リサーチのためにいくつものアジアンカフェを巡りながら、出店エリアやメニューを一緒に考えさせてもらった。商売を自分事としてとらえ、大人たちと意見を交わし、より良い空間をつくっていく。人にも恵まれ、新しい世界の扉が開けていくようだった。


「ほかにも事務や新幹線の車内販売、試食販売員、パン屋さん、それから墓石のテレアポまで、やったことがないバイトをやってみるのにハマっていて、楽しかったですね。商売の基本の『き』や、ビジネスにおける付加価値とは何かといったことを学びながら、世の中っていろいろな仕事があって面白いなと思っていました」



アルバイトに明け暮れる日々は楽しかった一方で、いざ就職活動が近づくと不安も大きくなっていった。周囲と足並みをそろえて就職を目指せるのか、そもそも自分は社会に適応できるのか。しかも、合わなければ比較的すぐに辞められるアルバイトと違い、企業で働くということは、そう単純な話ではないように思えた。


悩んだ末に、かつて留学前後に惹かれていた日本語教師という職を思い出し、ダブルスクールに通いながら本気でその道に進もうかと考えていた時期もあった。


「でも、教育実習で日本語を教えているときに、自分がいかに社会を知らないかということに気づいたんです。お金の流れを知らないし、社会の成り立ちも知らない。それなのに社会人に言語を教えることができるんだろうかと。であれば、やっぱり一度社会に出るしかないし、そのうえで先生になる方がいいだろうと考えて。周りよりだいぶ遅れてですが、就活を始めることにしました」


スーツを買いに行き、自己分析というものをやってみる。ちょうど偶然参加した企業の選考で、コーチングの手法を取り入れたワークショップがあり、「自分はなんのために働くのか」というテーマについて深く内省する機会があった。


「そのとき辿り着いた私の答えは今も変わっていないのですが、社会というのは人がつくるものであって、豊かな社会を実現しようと思うなら、その社会をつくる一人ひとりが豊かであり、幸せである必要がある。要は、幸せな人が集まれば、幸せな社会になると思ったんです。だから私は、人を幸せにできることを仕事にしようと。そこから、人を幸せにできる仕事や会社ってなんだろう?という視点で、就職活動をしていくようになりました」


社会には数えきれないほど仕事が存在することを、多様なアルバイトの経験から学んでいた。だからこそ、就職活動ではできるだけ幅広く企業説明会に参加してみることにした。各企業のミッションや事業内容、顧客などの情報を、自分なりの就活ノートにまとめていくうちに一つの答えが見えてきた。


「続けていくうちに気づいたのは、多くの会社にはそれぞれ実現したいビジョンがあって、それは社会貢献のためにあるということだったんです。だから、会社で働くってすごくいいことなんだなと思ったんですよ。じゃあ私は、人を幸せにしたいという自分のビジョンと、会社のビジョンが合致する場所を選べばいいだけの話なんだと。そこさえ合っていれば、まずはどんな仕事でもやってみようと思えたんです」


企業の存在意義を知り、働くことの意味を自分の言葉で語れるようになった。誰かの幸せをつくり、そうして幸せな社会をつくること。内省を経てたどり着いたシンプルな答えこそ、前を向いて歩むために必要なものだった。




2-4. 入った会社を「いい会社」にしよう


人を幸せにする仕事にもさまざまな形があるが、当時は自分が関心のある分野から考えた。頭に浮かんだのは、海外と日本をつなぐこと。食やファッションなど輸入されるもののなかから探し、化粧品や香水の輸入販売を手がけるベンチャー企業に入社した。商品企画部に配属され、2年目からは新規事業チームに加わり、海外とのやり取りを任された。


「エース級の先輩たちに囲まれながらも、海外から来る情報を最初に受け取るのは私だったんです。そのとき、社歴や年齢に関係なく、ものすごくオーナーシップを感じたんですよ。そのブランドが本当に大好きで、絶対に日本で成功させたいと思っていたし、世界中の誰もがこのブランドを嫌いになっても私は最後まで育て抜こうと、そういう強烈なオーナーシップを感じながら働く原体験を、入社してすぐに経験させてもらいました」


4年ほど働き、ある程度ブランドの基盤が整ってからは、パートナーが住む名古屋に居を移すため転職をした。当時、デザイン専門学校で学生向けのワークショップを企画していたことがきっかけで、その分野のエキスパートたちとご縁が生まれ、さらに自分らしくのびのび働ける環境に恵まれていった。


「ちょうどプロジェクトを立ち上げるので手伝ってくれませんかというお話を、同時期に4件ほどいただいたので、フリーランスの業務委託として働きはじめたんです。それがまたすごくいい経験になって。今のキャリア観にもつながりますが、働き方って一つじゃないんだなということを身をもって体感できたんです」


なかでも価値観を揺さぶられたのは、一般社団法人日本ワーキングママ協会(現:日本ウィメンリーダー協会)の立ち上げに参画した経験だった。女性が出産・育児を経験してもリーダーシップを発揮できる社会をつくるべく、ビジネススキルやネットワーキングに役立つコンテンツを提供する。そんな理念に共感した全国各地の有志の「ワーママ」たちが集い、運営する団体だった。


当時、子どもはいなかったが、子育てと仕事の両立に悩む人々の声を間近で聞き、問題の深刻さを実感する。いつしか「自分がどう働くか」だけでなく、「社会の中で人がどう働き、生きていくか」へと意識が広がっていった。


「いろいろな仕事をして、フリーランス含めいろいろな方と出会うなかで、これだけ多様な働き方があるのに、『決まった組織に属し、定型的な働き方を続ける』という従来のキャリア観に縛られる必要はないんじゃないかと当時思って。もしキャリアの築き方や働き方の自由度が上がれば、ワーキングママの人だってこんなに困らないんじゃないか。働き方って、人生においてものすごく重要だなと、そのとき感じたんです」



数年後、東京へと戻り、SEKAIA(旧 ICCコンサルタンツ)の代表である曽根靖雄と再会する機会があった。高校留学でお世話になって以来、定期的に連絡を取っていたが、話をするうちに「まさに自分が求めていた環境がここにある」と感じた。


無形商材かつグローバルで社会貢献性が高い事業、そして企業の中から社会により大きなインパクトを与えられる。その場で働きたいという意思を伝え、入社したのが2014年のことだった。


「抽象的ですが、『幸せな人が増えれば、幸せな人がつくる社会は幸せになる』と同じ原理で、『いい会社が増えれば、いい社会になる』だろうとシンプルに考えていて。次に会社に入ることがあれば、そこを徹底的に『いい会社』にしていきたいと思っていました」


社歴や年齢に関わらず、実績を評価してくれる会社のカルチャーだったこともあり、入社して1年以内にマネージャーへと昇格。その後はディレクターへと昇格していく過程で、メンバーが今よりのびのびと力を発揮できるよう、働き方や組織体制を見直し、改善していった。さらに2016年には、SEKAIAが親会社からMBOで独立することになったため、これを機にビジョンとミッションを刷新し、会社のアイデンティティを再定義してはどうかと代表に提案した。


「私としては、ただお客様と学校をつなぐ留学エージェントに入社したという意識はあまりなくて、人材育成の会社だと思っていたんですね。異文化での経験が人を成長させることを信じているから、結果的に留学がメインの事業にはなるけれど、あくまで人材育成という文脈の中の留学であって、一つの手段に過ぎないと。だからこそ、みんなが自社を紹介するときに『留学エージェントです』と言っているのがもったいないなと思っていて、『改めてビジョンとミッションを言語化して、その思いを入れませんか?』という提案をしたんです」


会社の本質は「留学」ではなく「人材育成」にある。もちろん社長の思いは浸透し、無意識に体現できている部分もあったが、きちんと言語化することで、全員が同じように感じられることに意味があると考えていた。


「Life Changing Experienceを提供する」――新しいミッションは、そんな思いを反映したものだった。


2022年、取締役副社長に就任する。同時に、社会はコロナ禍に直面していたが、「人材育成の会社として何ができるか」という問いに向き合うことが、会社を存続させるための拠り所となっていた。人を幸せにし、幸せな人がつくる社会にする。より多くの人が人生を楽しめるようにする。その礎として、SEKAIAは世界をつなぎつづける。


SEKAIAの代表曽根・メンバーと



3章 変化との付き合い方


3-1. 人生を楽しみたいなら、変化を生み出す側へ


どんなにつらいことでも、全ての経験を楽しんでいく。生きることの素晴らしさを実感できる今、根底にあるものは、変化を恐れない精神かもしれないと万出は語る。


「もともと私は、変化がすごく好きなんですよね。今の会社で働いているときも、どうすれば会社に変化を起こせるかを常に考えているところがあって。変化を恐れずに楽しむということは、私の中で何をするにも絶対的に重要なことだと思っています」


変化を恐れない性格は、持って生まれたものではない。幼い頃はむしろ、新しい世界や見知らぬ人との出会いが苦手だった。殻を破り、大きく成長できたきっかけは、やはりニュージーランドへの留学だった。一人で世界へ飛び出して、異国で過ごした経験は、何より自分の可能性を解き放ってくれたという。


「やってみたら楽しかったとか、行ってみたら良かったとか、会ってみたらすごく仲良くなったとか、そういう経験って誰しもあると思うんです。でも、実は人生のほとんどがそうなんじゃないかと、あるとき思ったんですよね。『今がいい』『変わるのは嫌だ』と思っていても、やってみなければ分からない。人生も日々の生活も、その積み重ねなんじゃないかと思っていて。これからの時代、変化を止めることなんてきっとできない。だったら、楽しんだ方がいいですし、いい変化を生み出しつづける人間でありたいと思っています」


変化を恐れるのではなく、積極的に受け入れながら楽しむこと。そんな姿勢こそ、先の読めない時代に生きる喜びを実感するために、不可欠なのかもしれない。さらには変化を生み出す側になることで、自分自身の未来をより自由にしていけるのだろう。




2025.11.27

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


「異文化体験」が、人生やキャリアをいかに豊かにし得るのか。万出氏の歩みを追うと、その本質が鮮やかに浮かび上がってくる。留学は人生における「一度きりのイベント」ではなく、そこで揺さぶられた価値観こそが、その後の人生を形作る起点になる。その力強さを誰よりも実感してきた万出氏だからこそ、多くの人の心を動かす事業や組織の在り方をつくることができるのだろう。


異文化に身を置き、世界を自分の足で確かめる体験は、他者を理解する視座を育てるだけでなく、「変化を楽しむ」という人生哲学へもつながっていく。自分の心の外側の世界に触れたことで芽生えた感覚が、極めてシンプルで本質的な信念へと昇華されている。


世界を楽しむ力は、特別な人だけが持つものではない。視野を広げる小さな一歩を積み重ね、変化を恐れずに前へ進むこと。その連続が、人生そのものを自由にし、豊かにしていくのだと、万出氏の生き方は教えてくれる。


文・Focus On編集部



▼コラム

私のきっかけ ― 『わたしはマララ』著:マララ・ユスフザイ



SEKAIA株式会社 万出恵

取締役副社長

千葉県出身。高校3年間をニュージーランドへ留学。大学卒業後、新卒で化粧品ベンチャーに入社し、商品企画、バイヤー、ブランドマネージャーとして従事した後、デザイン専門学校での職を経てフリーランスに。マーケティングコンサルティング、女性の働き方改革、社団法人設立、経産省JAPAN PROJECTにて中小企業のブランドPRなど支援。2014年に株式会社ICCコンサルタンツ(現 SEKAIA株式会社)に入社し、ビジネス留学プログラムや訪日外国人向けサービスを通じて日本人のキャリア形成と日本のグローバル化に貢献。現在は取締役副社長として、事業戦略の策定、人事制度の構築、組織文化の醸成など、企業価値向上に向けた幅広い取り組みを推進している。

https://www.sekaia.co.jp/corporate/


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