Focus On
片岡朋子
虹の学校  
校長
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or人と違うことをして、誰かを喜ばせたい。その思いが始まりだった。
フラワーデザインカンパニーとして、花を通じたデザインや新たな商品・ライフスタイルを提案していく株式会社ベル・フルール。東京・銀座に本店を構える同社では、生花を加工し、みずみずしいまま数年保つ「プリザーブドフラワー」の国内先駆者として、時代のニーズに先駆けた事業を展開しつづけてきた。国内外のアーティスト、スポーツ、レストランなど多様な業界とのコラボレーションも手掛け、現在は直営店のほか全国の大手百貨店に10店舗を展開している。
代表取締役の今野亮平は、大学、専門学校を経て、グラフィックデザイナーとして従事。25歳のとき、前身となる母親のフラワースクール「Belles Fleurs de Konno」を法人化した。専務として事業に携わるとともに、自身もフラワーデザイナーとして2006年「日本フラワーデザイン大賞(生花部門)」1位を受賞。2018年、株式会社ベル・フルールの代表取締役に就任した。同氏が語る「情熱のルーツ」とは。
花は、私たちの暮らしに必須の道具ではない。それでも人は花を買い、贈り、飾りつづける。実際、国内の花き小売市場は約1兆円規模*で推移しつづけている(*矢野経済研究所調べ)。
なくても生きられる存在である「花」は、なぜ必要とされるのか。今野はその答えを、「存在そのものがポジティブであること」にあると考える。
「2011年3月に東日本大震災が起きて、社会全体の空気が暗くなったとき、私自身、花の意味というものが若干揺らついたように感じたんです。でも、その年の『母の日』は過去最高売上だったんですよ。多くの人が花で誰かを元気づけたい、思いを伝えたいと考えている。『あなたのブランドで花を買ったことで元気になりました』と感謝の手紙やメールも多くもらいました。だからこそ、花を広めることで世の中をより幸せに、ポジティブにしたい。それを私の一生の責務だと思って取り組んでいます」
なかでも同社が日本初の専門店として手掛けてきたのは、「プリザーブドフラワー」と呼ばれる比較的新しい技術による花々とそのデザインだ。美しく咲く生花の水分を抜き、特殊な保存液と染料を吸わせることで、みずみずしく鮮やかな発色と質感のまま3~5年も保持できる。
物価高騰や地球温暖化が叫ばれるなか、水やり不要で枯れずに長持ちするプリザーブドフラワーは、サステナブルな選択肢として時代の後押しを受けている。同社の法人向けオーダーメイドフラワーギフト「ベルデコ」は、その一例だ。
「1番いい例は、開店・開業祝いや社長就任などで贈られる『胡蝶蘭』だと思います。胡蝶蘭は美しい花ですが、日が経つにつれてどんどん花が取れていって、最後は鉢と棒になります。スタッフが忙しいなか水をあげるのは手間だし、分別も大変です。でも、プリザーブドフラワーならコーポレートカラーに合わせたり、ロゴを形作ることもできる。そうすると、贈り先の方々も自分の仕事に集中できるし、本当に相手のことを想った、自分のエゴではない贈り方ができるようになります」
単に使い勝手が良いだけでなく、お盆やお彼岸では生花を使うなど、使い分けの選択肢も生まれる。それにより、従来よりも幅広いシーンで花を活かし、楽しむことができるようになる。
ほかにも同社のグループ会社ブランド「エミリオ・ロバ」では、おうち時間の増えたコロナ禍以降、生の観葉植物である「BIOPHILIA(バイオフィリア)」シリーズを展開。長期間旅行に行っても枯れることがなく、土が不要なため鉢や器をスタイリッシュなデザインにできる。現代のライフスタイルに即したアイテムとして支持を集めるなど、同社は「新しい花の形」を提案しつづけている。

エミリオ・ロバの「枯れない胡蝶蘭」
土と水を必要としない、現代の技術だからこそ実現できるデザインを追求する一方で、伝統の継承もまた、同社が大切にするテーマの一つだと今野は語る。
「日本には古くから『二十四節気(にじゅうしせっき)』という考え方があります。たとえば、冬至を境にして昼と夜の時間は逆転し、徐々に昼は長くなり、夜は短くなる。陰から陽へと運気が転じるといったものです。季節の変化を感じ、愛でることにつながる花は、日本古来の文化や美意識を継承していく存在でもあると考えています。外国の方が葛飾北斎を知っていたりするように、花を通じて、日本の伝統文化や美意識を広めていきたいと考えています」
季節の情緒や自然の変化をいかに感じ取り、文化や芸術として味わうか。難しい学問ではなく、日常に溶け込むフラワーデザインだからできることがある。2025年に開催された大阪・関西万博では、ベル・フルールとエミリオ・ロバは、フラワー業界で唯一のライセンス品に選ばれた。
フラワーデザインカンパニーとして、唯一無二の存在を目指す。その歩みは、着実に形になりつつある。
「花は老若男女もらって嫌な人はいないし、多くの人に幸せやポジティブな気持ちを届けることができる。なかでもベル・フルールは、分かりやすい例として『虎屋の羊羹になろう』と言っています。お土産やご挨拶としてもらって嫌な人はいないし、本当にいいものだという安心感が共通言語としてある。渡す側もそれが自分のステータスになるような、ものとしての素晴らしさと、それ以上の信頼感、そして大前提に未来永劫つづく本物の上質さがブランドになければいけないと考えています」
花を通じてデザインを提供する。それは新たなライフスタイルかもしれないし、長い間大切に守られてきた伝統を紡ぐものかもしれない。
なくても生きられる花が、なぜ必要とされるのか。その答えを、ベル・フルールは事業を通じて社会に示しつづけていく。

ベル・フルールの「苔(Moss)」シリーズ
建築家・安藤忠雄氏設計の「目黒 安養院」壁面装飾にも採用された
まだ東京の街並みに余白が残されていた時代、東武東上線ときわ台駅は1930年代につくられた。駅から同心円状に広がる独特の街路は、田園調布をモデルに開発されている。今ではどの空き地にもマンションが建ってしまったが、そこにはかつて、たしかに理想を思い描いた人がいて、その思いは洗練された街の佇まいとして残されている。
子どもが無邪気に遊べる広場に、バラが素敵な一軒家、少し先には国立のサッカー場もあり、恵まれた環境で育ったと今野は振り返る。
「学校が終わったら新聞紙やガムテープを丸めて、よくその辺で野球やサッカーをしていました。運動はいまだにやっていますが、当時から好きでしたね。月曜から金曜は水泳の選手コースで泳いで、日曜はサッカーで大会に出て。近くに西が丘サッカー場という場所があったので、そこに高校サッカーを観に行ったり、当時はJリーグの前身である日本リーグの試合もやっていたので、よく観に行っていました」
まさか「サッカー小僧」が将来フラワーデザイナーになるなんて、家族はもちろん、自分自身でさえ当時は思いもしなかった。
父方の祖父は、戦後福島県から上京し、一代で会社を築いた人だった。父もまたその跡を継いでいたが、「経営者になりなさい」と言われたことはない。どちらかと言えば、色濃く受け継いだのは母の情熱とクリエイティビティだったのかもしれない。
「母は専業主婦として男三兄弟を育てていたのですが、私が4歳ぐらいのときには家でお花を教え始めていました。当時は生け花が結婚するためのプロセスとしてあった時代で、働いていた頃から『教えてほしい』と言われるほど人気だったそうです。結婚して、子育ても落ち着かない時期から、近所の方に教え始めたのがスタートだと聞いています」
家の天井にはいつもドライフラワーが吊るされていて、子どもながらになぜ花がこんなにあるのかと不思議に思っていた。思いを持ったら、迷わず形にする。母はそんな人であり、子どもの感情も否定せず、常に支えてくれていた。
「母は何事も熱心でリスペクトしています。水泳を習っていたときも、プールサイドのガラス越しにストップウォッチを持って見守ってくれているんです。タイムを更新するたびに喜んでくれるし、その姿を見るのが私も嬉しくて。そうした小さい頃の成功体験が、おそらく自分の『できる』という感覚につながっている。それは両親のサポートがあったからだなと、あとから振り返って気づきました」
成果を出すたびに喜んでもらえる。人と違うことが、誰かの喜びになる。そんな感覚が育っていたのか、幼少期から目立つことが好きだった。気づけばいつも、自分というフィルターを通して周りを喜ばせることを考えていた。
ランドセルには名札のピンを使って絵を描いてみたり、いたずら的なことをして周りを驚かせたり。小学校のとき一年中を半袖短パンで過ごしていたのも、ひとえに近所のおばさんに「寒いのに偉いわね」と言われたことが嬉しかったからだった。おそらく笑われていたのだろうが、当時は褒められていると勘違いしたのかもしれなかった。
「『人と違う』という言い方は雑な印象もありますが、かっこよく言えば『クリエイティブ』だと思っていて。誰もやっていないことを生み出して、人に喜ばれるにはどうすればいいか。その表現方法として、そのときできるベストなものを選んでいたのかもしれません。与えられたことをやるだけじゃなく、自分とはこうだと表現できるものを模索しつづけている。こうして振り返ってみると、それが自分の生きる力なのかもしれないし、今でも一貫している部分ですね」
人を喜ばせるために自分を表現する。まだ誰もやっていないことをして、驚きと喜びを届ける。それが昔から自分のベースにある。だからこそ、のちに選んだフラワーデザインのブランド経営という仕事は、自分にとって天命とも思えるものだった。

幼少期、母と2人の弟と
2-2. 知らない世界を吸収し、自分事化する
小さい頃、名門高校のサッカー部がプレーするのを目にして以来、憧れもまた原動力になっていた。サッカーのために中学受験を選んだが、結果は全敗だった。運動も勉強もそれなりに順調だった小学校時代から一転、中学以降は思うようにいかないことも多くなった。
「公立の中学に入って、1年からすぐレギュラーになったのですが、先輩との折り合いが悪くなってすぐ辞めてしまったんです。高校も東京都でベスト8までいく強豪のサッカー部に入ったのですが、そこでも最後までレギュラーにはなれなかった。小学校のときはなんでも上手くいったけれど、中高は暗黒時代というか、楽しかったのですが絵にならない時期だったんです」
特に、高校のサッカー部は周囲のレベルが高く、自分が「井の中の蛙」だったと感じる瞬間も多かった。プロサッカー選手なんて、夢にも思えない。それでもなんとか自分なりに活躍の場を見出そうとしていたのか、当時はよくサッカーマガジンに投書していた。
「もともと情報を集めることは好きだったんですよ。父が読んでいたスポーツ新聞を自然と読んだり、試合を観に行くたびにフォーメーションやチーム構成を勝手に分析したり。サッカーだけでなく、父が応援している野球や、祖父母が好きな相撲まで、一緒にテレビで観ているうちに気づけば興味を持って調べている。遊びや好奇心の延長に学びがあって、それが自分を形作ってきたように思います」
知らないことに出会うたびに面白がり、自分で調べながら吸収する。その習慣が、進路選択にも表れた。
「結果的に私の中でターニングポイントだったのは、祖母の勧めで大学附属の高校を選んだことでした。受験をして3つぐらいの学校から選べた状況で、祖母が『亮ちゃんは大学附属に行った方がいい』と言ったんです。その後、大学に上がるタイミングでは、経営や法律を選ぶ人が多かったのですが、私はやはり人が行かない道を選びたくて、『国際関係学部』という学部を選んだ。その選択が正解だったなと思っています」

大学に入ると、それまでとは違う世界が広がっていた。
「国際関係学部は大学の中でも、ユニークな子が集まってきていたんです。みんな個性があって、周りがかっこいいな、自立しているなと思えた。それがすごく自分を奮い立たせてくれて。その頃から周りに影響されて始めたのが、バックパッカーでした」
「国際」と名のつく学部らしく、同級生は海外へ行くことが好きなメンバーが多かった。自らもアルバイトでお金を貯めては、アジアを中心に旅して回りはじめる。
旅の始まりは、たいてい「バックパッカーの聖地」といわれるタイのカオサン通りだった。昼夜を問わず活気あふれる通りで安い航空チケットを見つけて買い、そこからインドやネパール、フィリピンなどの国々へ飛ぶ。現地で知り合った人々と、拙い英語でコミュニケーションを取りながら、日本ではありえない光景を目にしたり、ときにはトラブルに巻き込まれたりもする。
数週間の旅から日本に帰るたび、実感するのは「自分はなんて恵まれているんだ」という事実だった。
「滞在先で知らない人に感動して、自分の中の変なステレオタイプを自覚して。そんなことをやっていくと、次々に価値観が変わっていくようでした。今まで高校の小さいサッカー部の中だけで考えていたところから、怒ったり感情的になったりしても『タイ人だったらどう思うかな?』『ブラジル人だったらどうかな?』と、自分を俯瞰するようになったんです。どちらかと言えば感情が強い方だと思うのですが、一段高いところから自分を見る、第三の自分が生まれたような感覚でした」
知らない国を訪れ、人に出会い、感動する。そんな体験を積み重ねるほどに、無意識にも自分の中に新たな思考や価値観が生まれていく。純粋な好奇心を大切に、遊ぶように吸収した世界の一つひとつが、自分を構成する一部になっていくようだった。

大学3年のときには、米国オレゴン州にあるポートランド州立大学(PSU)へと留学もした。「パブリック・アート」で知られるポートランドでは、街を歩くだけでさまざまなスタイルのアートに触れられる。
土地に息づく歴史とクリエイティビティに触発され、自然と絵を描きはじめたのはこの頃からだった。自分で何かを表現し、人を喜ばせる。徐々にそれが仕事というイメージへとつながりつつあった。
「米国から帰ってきたあと、デザイナーになろうと決めたんです。それがファッションデザイナーなのか、メイクアップアーティストなのか建築家なのかは分からないけれど、何かをデザインする、何かを作る仕事をしようと、あるとき自分の中で決めたんですよ」
アートやデザインへの思いを抱えつつ、日本に帰国してからは引き続き絵を描いてみたり、母の背中を追ってフラワーデザイナー資格の3級を取ったりもした。大学卒業後は、グラフィックデザインの専門学校へと入学する。
「専門学校時代の思い出としては、友人とペンでタトゥーを描くバイトをしていたんです。要は、消えないペンの販促で、大型の雑貨店とかにある体験ブースで描いていたら、いつの間にか行列ができていて。あるとき一人のお姉さんから『私のお店でもやってください』と言われて、その人はDJだったようで、六本木のクラブにペインティングのコーナーを作ってくれたんです。そこでいろいろな人に出会ったことも勉強になりましたし、自分のクリエイティビティやアート性を誰かが評価してくれた原体験でしたね」

新卒で選んだ会社は、大阪にあるベンチャー企業だった。就職活動らしい就職活動をした記憶はないが、おそらく学校に求人が出ていたのだろう。インターンのような形でお手伝いをしていたご縁から、そのまま入社することにした。事業は人材派遣業を中心に、新規事業として海外関連の小売ビジネスなどをいくつか立ち上げていた。
「就職するときに自分で目標を立てていて、『20代は修行の時期、30代からは稼いで、40代は人から指名されて仕事する』というイメージを持っていました。今でもそうですが、もちろんプロとしてお金を稼ぐことは大切ですが、お金のためにやっているわけじゃない。ほかがやっていない良いことをやっていれば、自ずと対価としてのお金はついてくると思っていました」
グラフィックデザイナーとして入社したものの、ベンチャーらしく日中は営業としてテレアポなども任された。ホームページや紙媒体のデザイン業務は、定時が終わってからが本番となる。今でいえば長時間労働だが、それが苦になることはなく、知らないことを経験していけるので仕事は楽しかった。
もちろん心が折れかけた瞬間もあったが、お世話になった上司からは「3年はやれ。3年目になったら社会が分かるし、社会もお前のことを理解する」と言われて踏みとどまった。続けることでこそ、見えてくる世界がある。そう学べたのは、当時の上司のおかげだった。
続けた先には、思いがけない転機も待っていた。当時は大阪に住んでいたので、せっかくだからと3級の資格を取ったNFD(公益社団法人日本フラワーデザイナー協会)の地方コンテストに出場してみることにしたのだ。母のフラワースクールを手伝っていた時期はあったが、本格的なコンテストに出るのは初めてだった。
「人生初のコンテストで、当然入賞はできなかったんです。『だめだ、残念だったな』と思って搬入口の方に戻りかけていたとき、一人の大阪のおばちゃんが『これ、私いいと思ったんよ』と声をかけてくれて、ものすごく感動したんですよね。賞には入らなかったけれど、誰かが評価してくれた。もしその人がいなかったら、フラワーデザイナー今野亮平は生まれていなかったかもしれません。それぐらい運命的だったと思います」
フラワーデザインの基礎もなければ、経験もない。それでも、自分のクリエイティビティやアート性を評価してくれる人はいた。たとえ一人でも、いるのといないのとでは大きな違いがある。ただ、ほかにない良いものを創りつづける。そうすれば、評価はあとからついてくると信じて進むことにした。

サラリーマン時代には、余暇を使って母のフラワースクールのホームページも作っていた。デザインは自分で作り、コーディングは同僚に頼んだ。
「当時は給料も安かったのですが、その同僚に小遣いを渡して『ちょっとホームページ手伝って』と言って作ったものが、今のベル・フルールのホームページの原点です。その頃から、少しずつ自分が花を仕事にすることを意識しはじめたのかもしれません」
東京に戻り、自分で花をビジネスにしよう。そんな思いが心から離れなくなり、両親にも相談する。常に応援してくれていた両親だが、当初二人は大反対だった。
「従来のフラワースクールの概念でいえば、ご主人が生活の基盤を持っていて、奥様がサロン的に教える形態が多かったので、母も『お花で男子が商売なんかできない、それで生活できるのか』と反対でした。ただ、最初は父の会社も半分手伝うからとなんとか説得をして。私が25歳のとき、2003年1月に有限会社ベル・フルール(現 株式会社ベル・フルール)をつくりました」
当時はまだ事業が多角化していなかったため、売上はフラワースクールが100%を占めていた。そのなかで自分の役割として決めていたのは、主にインターネットを活用して母・今野政代を有名にすることだった。ベル・フルールというブランドの価値を業界内だけでなく、社会全体に広めたい。そんな思いがあった。
「今でもそうですが、私はブランドづくりを大切に考えています。もちろん会社の売上数字も大切にしながら、どうやってブランドを成長させるのか。当初は自分をプロデューサーだと思って始めた仕事でした」
扱うものは華やかだが、最初の3年は「お母さんのお手伝いをして偉いわね」と言われることも多かった。世間からの目線が変わったのは、2006年の「日本フラワーデザイン大賞」への出場だった。
1位を受賞し、日本一のフラワーデザイナーとして名が知られ、メーカーや百貨店など各方面から声がかかるようになった。今に続く店舗づくりへの足掛かりをつかんだのは、その頃からだ。

同時に、当初から並行して注力していた「プリザーブドフラワー」も、トレンドとして芽吹きつつあった。
「プリザーブドフラワーは1990年代にフランスで発明された技術で、それを日本に広めるきっかけとなったのが、2002年に母が出版したデザインブックでした。今ではベストセラーになり、プリザーブドフラワーのバイブルと言われていますが、当時は業界内からの『そんなものは一瞬のブームで終わるだろう』という視線を感じていました。でも、生花はどうしてもロスが多くなってしまうのに対し、今やプリザーブドフラワーは『サステナブルフラワー』として世界基準で評価されるようになっている。時代にも後押しされたと思います」
いち早くムーブメントを牽引したことで、業界内での存在感は確かなものになっていた。しかし、目指すのは、一過性のトレンドではなく、時代を超えて選ばれるブランドだった。
2008年には、初の路面店であるベル・フルール銀座本店をオープン。「銀座のベル・フルール」として、その名に恥じないブランドづくりを目指してきた。
約15年間、専務という立場から会社経営に携わってきたが、40歳という節目に代表取締役へと就任。2020年7月には、大手アパレルメーカーのイトキン社から、アートフラワーブランド「エミリオ・ロバ」をM&Aにより事業譲受した。
「コロナ禍が始まったタイミングでしたし、『エミリオ・ロバなんてもう終わっているだろう』と周囲からも反対されました。実際、バブル期には50店舗以上に拡大したらしいのですが、創業者がいなくなったあとは売上主義の商売で、右肩下がりになっていた。ただ、店舗に足を運ぶと、売り方は課題もあったけれど現場はすごく頑張っている。『これはいける』と思って、アートフラワーのスーパーブランドとして店舗やオンラインの見せ方や売り方を変えていった。アーティストから、責任ある経営者としての今野亮平に変わっていったタイミングでした」
長年赤字だったブランドのV字回復を果たしたことは、経営者として大きなターニングポイントになった。
デザイナーとして花を彩ることと、経営者としてブランドをつくることは、本質的には共通するものがある。どちらも、まだない良いものを世に示しつづけ、人を喜ばせるものだからだ。ベル・フルールは「フラワーデザインカンパニー」として、花を通じてデザインを提供し、花にまつわる文化やライフスタイルを再定義しつづける。

ビジネスでも人生でも、一貫して大切にしてきたことは『ポジティブに進むこと』だと今野は語る。
「ポジティブに進むということ、そしてそれをどう表現し、伝えていくべきかという部分は常に意識しています。私自身はパッションが強い人間ですが、そうではない人もいる。言葉の捉え方は人それぞれなので、伝え方はシーンによって変える必要があると思っているのですが、『思いがあるならやろうぜ』というメッセージは共通して変わりません」
自分の中に思いや「やりたいこと」があるのなら、その瞬間にスタートした方がいい。最大の失敗は「やらないこと」であり、行動した先で何かを得られたなら、過去の意味すら変えられるという。
「つらかった時期があるからこそ今があると、間違いなく思っています。これはどんな人にも当てはまると考えていて、今は『つまらない、面白くない、うまくいかない』という思いがあるかもしれないけれど、それは自分にとって大事な時期だと受け止めて、未来をより良くすることで変えていく。総じて一歩出ること、『やらない』ではなく『やる』を選ぶことが大切だと思います」
ベル・フルールでは、組織としても「ポジティブに進むこと」を重視する。年齢や経験、人種というフィルターを通さず、あくまでその人自身の意欲と振る舞いを見る。
「2025年秋から、新店舗を大丸東京店にオープンしたのですが、そこの店長は24歳で、新人のスタッフは62歳なんです。先週も社内でコンシェルジュ販売員の採用面接をしていて、その方も60代だったのですが、偶然面接が終わって外の歩道橋を渡っていく姿が見えて、歩く所作が美しかったんですよ。花って意外と重かったりしてフィジカルを使うので、60代だと筋肉が落ちていて難しい場合も多いのですが、『あの人採用したでしょ?』と聞いたら、やっぱり採用だと。スタッフにも人をフィルターで決めつけないようにと伝えています」
どう生きるか、どう選択するかの繰り返しによって、人は形作られる。たとえば1日たった一つでも、何かを意識しつづける。そうすれば、「やらなかった自分」と「やった自分」のあいだには、1年後に365日分の差が生まれている。
できると信じてやってみる。一人の心の持ちようが、世界をポジティブに変える最初の分岐点になるのかもしれない。

2026.4.3
文・引田有佳/Focus On編集部
人を喜ばせることが、自己表現になる。そのシンプルな軸が、フラワーデザインという形を借りて、一つのブランドになった。
今野氏の生き方は一貫している。「やらない」より「やる」を選びつづけること。違う世界を吸収し、自分事化すること。人と違うことで、誰かを喜ばせること。偶然に見える転機も、振り返れば必然だったと思えるのは、軸がぶれていないからだろう。
花は、なくても生きられる。それでも人は花を求める。その問いへの答えを、今野氏は事業を通じて示しつづけている。ポジティブであることは、生き方であり、戦略でもある。
文・Focus On編集部
▼コラム
株式会社ベル・フルール 今野亮平
代表取締役社長
1977年生まれ。東京都出身。大学、専門学校を経て、グラフィックデザイナーとして従事。25歳のとき、前身となる母親のフラワースクール「Belles Fleurs de Konno」を法人化した。専務として事業に携わるとともに、自身もフラワーデザイナーとして2006年「日本フラワーデザイン大賞(生花部門)」1位を受賞。2018年、株式会社ベル・フルールの代表取締役に就任した。花に関するすべての要望に応えるフラワーデザインカンパニーとして、フラワーアレンジメントの制作・販売だけでなく、教育分野や、店舗・イベントの空間ディスプレイなど、幅広い事業を手掛けている。
https://www.belles-fleurs.com/