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「顧客体験」が不動産取引を変える ― 人が創り、人が寄り添う住みかえの未来

何もないところから何かが生まれる。その手触りが、人を夢中にさせる。


「住みかえを軽やかに、人生を鮮やかに。」をビジョンに掲げ、不動産取引をよりスムーズに、住みかえをより身近な選択肢へと進化させていく株式会社Facilo(ファシロ)。同社が開発・提供する不動産コミュニケーションクラウド『Facilo』は、仲介会社の業務効率化と顧客体験の向上を実現する。AI時代にもなくならない「人の価値」に焦点を当て、不動産仲介におけるより良い顧客体験を追求するサービスだ。


代表取締役CEOの市川紘は、リクルートに入社後、SUUMOにて営業・プロダクト・経営企画マネージャー・新規事業開発部長として従事。2016年にサンフランシスコに渡り、シリコンバレーの不動産テック企業MovotoのCFOとして勤務した。同社をアメリカ第4位の不動産ポータルサイトに成長させ、年間18億円の赤字の状態から黒字化に成功させたのち、2020年にはOJO LabsへのM&AによるEXITを実現。2021年に帰国し、株式会社Faciloを創業した。同氏が語る「ゼロから創る楽しさ」とは。






1章 Facilo


1-1. 住みかえを軽やかに、人生を鮮やかに。


不動産購入が「一生に一度の買い物」になりがちな日本と違い、米国ではライフステージの変化に応じて柔軟に家を住みかえる。家は人生の象徴であり、自分の価値観を表すものでもある。だから誰かが住みかえれば、親しい人を招いてパーティーを催すのが日常だった。


シリコンバレーで不動産テック企業のCFOを務め、EXITも経験した市川は、業界で働きながら、なおかつ生活者としても、日本との大きなギャップを体感したと語る。


「米国では住みかえが日本よりもっと身近で、ライフスタイルが変われば、それに合わせて家も住みかえることが当たり前なんだなと、すごく実感したんですよね。調べてみると、生涯の平均住みかえ回数は日本が約3回なのに対して、米国は約12回と4倍の開きがある。ここにポテンシャルがあると感じたんです」


かつてリクルート時代には、SUUMOのユーザー400人以上にインタビューを行った。インタビューのなかで、現在の住む家に100点をつけた人はほとんどいなかった。「住みかえを軽やかに、人生を鮮やかに。」というFacilo(ファシロ)のビジョンには、誰もが100点をつけられる家に住み、自分らしい人生を体現できる世界を創りたいという想いが込められている。


「どうせ起業するなら、自分の天命だと思って起業したいと思っていました。この会社の存在によって、住みかえという選択肢がもっと身近になり、見えていなかったマーケットを生み出せた。それによって、日本の社会全体に良い波及効果があったと言えるようなことをやりたいという想いがありました」


同社が提供する不動産コミュニケーションクラウド「Facilo」は、不動産仲介の煩雑なコミュニケーションを一元化・可視化することで、不動産取引をよりスムーズに、住みかえをより身近な選択肢へと進化させていくサービスだ。顧客と仲介会社は、顧客ごとのマイページで情報を一元的に管理・やり取りできる。物件提案から内見予約・顧客フォローまでの一連のフローを円滑にストレスなく進められるほか、人の介在が重要な接客に集中できるようになる。


活用シーン別に「Facilo物件購入クラウド」「Facilo物件売却クラウド」
「Facilo賃貸クラウド」「Facilo事業用クラウド」の4プロダクトを展開
マイページは面倒な登録が不要、不動産取引に関する重要な情報を分かりやすく可視化する


「金融の仕組みや税制、政策といったマクロな背景もあるなかで、ビジネスやテクノロジーで何を変えられるかといえば『顧客体験』だと思ったんです。不動産取引は複雑で情報量も多く、難しい・縁遠いという印象を持たれやすい。その印象が、住みかえのハードルを高く感じさせている側面がある。だから、顧客体験をいかにより良く変えられるかを考えてきました」


顧客体験を左右するのは、何より仲介会社とのコミュニケーションの段階だ。意を決して問い合わせ、物件を見に行き、契約へと進む。その過程でのやり取りをよりスムーズにすることが、不動産への印象を変える鍵になると考えた。


「当初は、不動産会社さんから過去の顧客コミュニケーションをデータ提供いただいて機械学習にかけ、営業担当が不在の間や夜間でも返信できるAIチャットボットのような仕組みを作ろうとしていました。ただ、現場のやり取りを見ていくと、やり取りそのものに課題が多かった。その最も象徴的な言葉が『五月雨式になってしまい申し訳ございません』だったんです」


チャットボットに五月雨式のコミュニケーションを再現させたところで、顧客体験は改善しない。問題は、情報を小出しに送らざるを得ない構造そのものにあった。そんな現場の課題意識から、業務効率化と顧客体験向上を同時に叶える、現在のプロダクトの形が生まれていった。


「今あるものを否定して上から目線で『変革』するのではなく、今あるものを土台にしながら一緒に別次元へ『進化』をしていく。今後も現場の声に寄り添い、現場の課題を解決できるようなプロダクトを、地道に真摯に作っていきたいと考えています」


現場を大切に、ともに創り上げる。Faciloのスタンスはこれまでも、そしてこれからも変わらない。住みかえという選択肢がもっと身近になる日を目指し、同社は着実に歩みを進めていく。




2章 生き方


2-1. ゼロから生み出せる


父は名古屋でコピーライターとして働いていた。通勤は片道1時間以上、徹夜も多く、多忙な日々を送っている人だった。それでも、たまの休みには子どもと同じ目線に立ちながら、一緒に遊んでくれた。クリエイター気質だったのか、今思えばユニークな遊び方を教えてくれたと市川は振り返る。


「当時、父はビデオカメラを持っていたんですよね。それを使って、今で言う『ストップモーション・アニメーション』のような感じで、人形を置いて撮影をオンにしてオフにして、また少し動かしてはオンにしてオフにしてと、コマ撮りでちょっとした映画のようなものを一緒に作ったり、そんな遊びを父としていたことは印象に残っています」


仕事についてはたまに制作物を見せてもらう程度で、あまり聞いたことがなかったが、そうした遊びを通じて、何かを作るということが、子どもにとっての鬼ごっこと同じように身近なものになっていたのかもしれない。


「幼少期は結構引っ込み思案というか、シャイなタイプでした。小学1年生のとき名古屋から三重へ引っ越しをしたのですが、隣の県とはいえ方言がかなり違うんです。それが5~6歳児からすると異国に来たような感じで。慣れない環境、しかもほかの子たちは保育園や幼稚園からの付き合いでなかなかなじめず、泣いていたらしいです(笑)」


とはいえ、不安な時期は長くは続かなかった。小学2年生でサッカーを始めて以来、少しずつ自信がついてきた。担任の先生が背中を押してくれたこともあり、みんなの前に立つことが怖いことではなくなっていった。


「サッカーで仲間が増えたり自信がついてきたりしたこともあって、そのあたりから前に出ることが好きになって。小学4~5年生くらいからは、学級委員や生徒会をやったり、授業中も積極的に手を挙げて意見を言ったりするようになりました。自信がついてきて自分を表現したくなったのか、性格は結構ガラッと変わっていきましたね」


小学校時代、父(写真左)と妹と


中学校に入ると、学級委員などの延長線上として目が向いたのは音楽だった。


「当時中学にギターを弾ける友だちが2人くらいいて、ものすごくかっこいいと思って。父もずっと音楽をやっていたので、もともと自分も聴く側として音楽は好きだったんです。父に教わる気恥ずかしさもありつつ、それ以上にかっこいいから始めたいと思って。中学1年生のときに『ギターを教えてほしい』と頼んだんです」


勇気を出して切り出すと、父は嬉しそうに応えてくれた。教えを受けて少しずつ上達するにつれ、学校のクラス会や学園祭で演奏するようになり、高校からは流行りのインディーズパンクロック系のバンドを組むようになった。


「田舎なのでバンド人口も少ないなかで、なんとかドラマーとベーシストを見つけて、3人で始めたのが高校1年の夏くらいだったかと思います。米国の『オフスプリング(The Offspring)』のコピーバンドをやったり、ほかにも一人で路上ライブをやったりしていました」


家には父の録音機材があったので、自然と作曲にも手を出すようになった。ギターの伴奏をカセットテープに録音し、そこにギターやボーカル、コーラスを重ねて録音していくと自分だけの曲ができあがる。ただ既存の曲を演奏するだけでなく、曲作りにものめり込んでいった。


「やっぱりモノを作る楽しさをすごく感じましたね。メロディーを作って、歌詞やトラックをそれに合わせて作っていって、重ね撮りをすると初心者でもそれなりに形になる。見様見真似ではあったのですが、『本当に何もないところから作れるんだ!』と思って、それがシンプルに楽しかったですね」


何もないところから何かが生まれる。無から有を生み出す手触りと楽しさを教えてくれたのは、音楽だった。何より夢中になれるものが、そこにありそうだった。




2-2. 伝え、広がる喜び


サッカー少年らしくプロのサッカー選手を夢見た時期を経て、学生時代はずっと弁護士が将来の目標だった。


「安易な理由なのですが、小中学生くらいの頃に人生ゲームで遊んだとき、弁護士が一番給料が高かったんです。祖父に話すと『立派やな、頑張れよ』と言ってもらえたし、弁護士がどんな仕事かもよく分からないまま法学部を目指そうと、当時はそんな風に考えていました」


首都圏と関西の法学部をいくつか受けていくなか、入学試験のために訪れた東京は、予想以上にダイナミックで楽しそうだと思える場所だった。もともと大学やエリアのこだわりはなく、フラットに見ていたが、街を歩くうちに「東京で暮らしたい」という思いが高まり、迷わず東京の大学に進学することにした。


司法試験への合格を目指し、大学1年生のうちにダブルスクールで予備校に通い出す。しかし、法律の勉強に触れれば触れるほど、自分に合っているのかという疑問は大きくなっていた。


「弁護士になりたいと思って入ったし、家族の期待も背負っているのに楽しくないなと感じてしまって。なんでこんなに楽しくないのかと考えたときに、あくまで当時の僕の一面的な見え方ですが、司法試験の勉強というものは、例題に対して学会の通説や最高裁判所の判例をしっかり覚えて、覚えたものを書く。既存の価値観をなぞる面が大きいように見えたんです」


なかなか勉強にコミットしきれない一方で、心を惹きつけるのは、やはり音楽だった。高校から続けていたギターは、もちろん上京の荷物に含まれている。大学でも絶対にバンドを組みたいと考え、入学早々バンドサークルで音楽の趣味の合う仲間をスカウトし、学外でのライブを見据えて活動しはじめた。コピーバンドではなく、自分たちが書いた曲で勝負してみたかった。


「下北沢に『屋根裏』や『下北沢SHELTER』という名門のライブハウスがあって、有名なバンドも輩出しているんです。そこはオーディションに受からないと出演できないことになっていて、まずオーディションに合格する。そこから別のバンドが企画するライブの前座や、店が企画するライブに出させてもらいつつ実績を積んでいき、最後に『自主企画』と呼ばれる自分たち主催のライブができる。頑張ってそこまで実績を積んで、お客さんも一定集まるようになってきていました」


大学時代、下北沢でライブ活動をしていた頃(写真右)


ライブハウスでの実績が積み上がるほど、音楽活動はますます楽しくなる。司法試験の勉強は、結局途中で諦めることにした。それでも、音楽で食べていける保証があるわけではないという現実も、少しずつ見えてきていた。


「周りにいる自分たちよりうまくて人気のバンドでも、じゃあメジャーデビューできるのかというと、そうではなくて。社会人になってもアルバイトをしながら夢を追いかけている人たちはすごいなと思いつつ、才能もあってこれだけ人生を賭けたとしても、プロにはなれない現実がある。それを見たときに、自分には彼らほどの才能はないし、人生を全て賭けるほどの覚悟もないと感じて、音楽は大学までで一定やりきろうと考えていました」


バンドとして活動するなかでは、ギターやボーカルよりも、依然として曲作りに自分の情熱を見出していた。


シンプルなギターと歌だけの状態でスタジオに持ち込んで、バンドメンバーに弾いてもらうと「いいね!やろう!」と盛り上がる。その場でセッションしながらドラムやベースを仕上げ、互いの熱を込めながら楽曲の形にする。誰かとともに作り上げ、元より10倍、100倍にも良くなっていくプロセスが楽しいことはもちろん、それをライブで観客に届けていくことにも喜びがあった。


「ギター1本で作った自分だけの曲だったものが、バンドの曲になり、最終的にはお客さんに届いていく。『お客さんの曲になる』と言うと大げさかもしれませんが、それによって不特定多数の人に喜びや感動、何らかの影響を与えることができるという、この一連の流れがすごく楽しかったんですよね。だから、バンドは仕事にできないという諦めはありつつも、仕事をするならこれに似たような楽しさを再現できる仕事がしたいと思ったんです。もっと言うと、ライブハウスのキャパシティーは数百人ですが、ビジネスというフィールドなら、もっと規模を大きくできるんじゃないかと思ったんですよね」


新しいものを生み出し、それを広く社会に届けていく。価値をお金に換え、持続的な仕組みとしてインパクトを与えていく。それが実現してみたいという衝動が、自分の軸になっていった。




2-3. 論理と現場はどちらも大切


音楽で掴んだ感覚は、そのまま就職活動にも通じるものだった。大学3年の夏頃から、まずはインターンシップに参加して、広く業界を見ていくことにした。


「基本的には、新しいビジネスを生み出せそうな会社を探していました。売るものが決まっているというよりは、売るもの自体を自分で作りたいという思いがあって、商社や広告代理店のような、形のないものを扱っている会社に落ち着いていきましたね」


なかでも、インターンシップを通じて雰囲気を知ることができ、幅広い領域でプロダクトを生み出していたリクルートへと入社を決める。


内定者アルバイトでは新規事業の部署で働かせてもらい、新しいものを作る難しさを間近で体感できた。それもあり、入社後はまずは実力をつけるべく、既存の事業部で経験を積みたいと考えた。


「SUUMOのなかでも、新築マンションの部門に行きたいと希望を出して、配属されました。新築マンションって、商材としては販売期間が比較的長いんです。1~2年かけて売っていくし、準備の期間も合わせると数年単位のプロジェクトになる。そこに腰を据えて集客の支援をしていくことになるので、スピード優先の行動量勝負というよりは、もう少し長い視点で伴走していく感覚が強い。それは、新規事業に通じる部分なのではないかと感じていたんです」


新しくサービスやプロダクトを作るにしても、いきなりヒットするケースは珍しい。むしろ、長い目で物事を見て、継続的に価値を提供しつづけていく。そのなかで磨き上げていくようなイメージがあったので、近しい経験が積める部門がいいと考えていた。


最初は同期とともに新卒研修を受けたあと、クライアントを引き継ぎながら営業として商談に出ていくことになる。先輩たちが築いた信頼関係があり、プロダクトの力もある。営業の仕事は楽しかった。しかし入社から半年後、いよいよこれからというタイミングで、フリーペーパーなどを扱うプロダクト部門へ異動になった。


「最初は結構ショックだったんですよね。いずれはプロダクトをやりたいと思っていたものの、まずはしっかり営業を3年くらい経験してから既存のプロダクト、新規事業へというキャリアプランを描いていたので。でも、振り返ってこれが『時期尚早だった』となるか、『最短距離だった』となるのかは、ここからの自分の頑張り次第だと思って、切り替えて仕事に向き合っていきました」



新しい配属先では、駅にあるフリーペーパーのラックの配置や、毎週の印刷部数、表紙やタイトルの企画に責任を持つ仕事を任された。そこでは、すぐに大きな課題と向き合うことになった。


「印刷は数万部単位なので、その効率が収益に直接ヒットしますし、当時はリーマンショックで景気が悪化していたこともあり、コストを下げなければいけなかった。トップからのミッションは、印刷部数を半分にして、モデルルームへの集客を倍にすることでした。つまり、4倍の費用対効果にするようにという指示だったんです」


当時は、どちらかといえば頭でっかちなタイプだった。同じタイミングで異動してきた先輩と2人、まず厳しいだろうと早々に結論を出した。印刷部数が下がると広告効果も下がる。そんな一般論の相関関係を示した資料を作り、できない理由をプレゼンすれば、上司にしこたま怒られた。そこからが本当のスタートだった。


「途方に暮れて、とにかく現場に行ってみようと思ったんですよね。もともと不動産の現場を大切にする組織のカルチャーがあったので、駅のラックも同じだろうと考えて、契約更新が迫っていた300駅くらいを直接見て回ってみたんです」


「駅図」と呼ばれる駅構内の地図を印刷し、クリップボードに挟みつつ、一駅ずつ歩いて確認しに行ってみる。すると、ほかと比べて明らかに部数の減りが悪い駅がある。利用客は多い駅なのになぜだろうと観察していると、ラックに至るまでの導線がかなり悪かった。ほかにも突然部数が伸びた駅があり、理由が分からないまま足を運ぶと、駅図にはまだ反映されていないが新しくオフィスタワーに直結する出口が作られていたりした。


「エクセルのデータや地図上では分からない変化があったり、あとは人の流れですね。これは現場に行ってみなければ分からなかったので、そういった情報を集めて細かく1個1個調整していくと、配布効率が本当に劇的に上がったんです。1年目は東京メトロ全線を対象にそんな成功体験があったので、2年目は路線を拡大したら、最終的に年間10億円近いコスト削減につながって、広告効果は1.5倍くらいになったんですよね。それが大きな原体験になっていて、もちろんデータで仮説を立てることも大事ですが、やっぱり現場に行かなければ分からないということを当時すごく実感しました」


手応えを掴み、編集部が実施していたユーザーインタビューにも、勉強のために同席させてもらうようになった。累計で400人ほどのユーザーの声を聞くなかで、データでは見えないユーザー心理の解像度が上がっていった。


現場の一次情報にこそ、大いなるヒントがあるという確信は、以降のプロダクトづくりにおいても土台となっていった。




2-4. シリコンバレーに残る理由、発つ理由


その後リクルートでは、経営企画として部門やSUUMO全体の経営戦略策定に携わり、新規事業立ち上げの責任者も担った。もともとやりたかった新規事業も含めて、充実した経験を積むことができた。一方で、当時は少しずつ海外への興味が高まっていた。


きっかけは、中国へ赴任していた同期から聞いた話だった。現地でジョイントベンチャーを立ち上げ、現地の仲間とビジネスを作り上げていく。そんな話に触発され、希望を出しつづけた結果、リクルートが買収した米国シリコンバレーの不動産テック企業Movotoへの駐在が決まり、2016年4月に渡米した。


「三重の片田舎で育っているので、英語の苦労はありましたね。教科としての英語は得意科目だったのですが、仕事で使ったことは一切なかったので。渡米する前にちょっとした研修はあったのですが、それよりも行ってからなんとか食らいついていった感じでした。ただ、それ以上に言語や国籍、文化を超えてビジネスというフィールドで仲間と一緒にプロジェクトを進めて、理解し合うという体験は、すごくエキサイティングで心に来るものがありました」


環境や仲間に恵まれ、西海岸での新生活は大いに刺激的だった。しかしほどなくして、リクルートのグローバル戦略上、撤退する方針だという話が降りてきた。


日本に帰国するか、リクルートを退職して米国に残るか。2つの選択肢を前にしたとき、心に浮かんだのは、それでも残すべき「いい事業」であるという確信だった。


「不動産ポータルサイトとして、米国のトップ数社ほどのブランド力はないけれど、物件情報の鮮度やサイトのパフォーマンスなど、ベーシックなサイトの作りとしては他社より優れたものを作っていたんです。本気で物件を探す人にとっては、派手さはないけれど、いいサイトを作れているという自負がありました。実際、ユーザー数もかなり伸びていましたし、現地雇用の従業員たちも、僕にとってはもうかけがえのない仲間になっていたので、それが一瞬でなくなるようなことは避けたいと思ったんです」


短い期間だが、思い入れを持って仲間と事業を作ってきた。自ら手掛けた新規事業もある。半ば意地もあるが、それらを責任を持ってやりきりたかった。だからこそ、リクルートとの資本関係が解消された後も、今度は駐在員ではなくCFOとして経営に参画することにした。


ロサンゼルスの拠点立ち上げイベントにて、Movotoの仲間と(写真右)


2018年、リクルートグループを離れ、再スタートを切る。会社は放っておけば半年ほどで倒産しそうな状態だったため、まずは生き残るための試行錯誤が始まった。


「それまでは米国1位を取るための戦略で、市場の巨大な先行プレイヤーを追い抜くために、飛び道具的なプロジェクトを並行して進めていたんです。でも、生き残ることをゴールにしてからは、1位を狙えるような派手なプロジェクトを回すのではなく、自分たちが一番得意なことを分析し、それだけに集中したんですよね。やらないことを捨てる勇気は必要でしたが、そこから本当にやることを絞って1点突破したことで、結果的に集客数や売上が倍近くに伸びていったんです」


毎日資金繰りにひりつきながら、少しずつ赤字幅を狭めていった。1年ほどが経ち、ようやく黒字化を果たしてからは事業も順調に伸び、2020年頃には複数社からM&Aのオファーが来るまでになった。


交渉の末、無事に良いEXITが実現できたので、残ってくれたメンバーにはまとまったキャピタルゲインを返すことができた。全てがひと段落した1年後、改めて次のキャリアを考える余裕が生まれてきた。


「やはり自分は新しいものを創ることが好きで、SUUMOでもMovotoでも新規事業ができた。ただ、どちらも自分が創業した会社ではなかったんですよね。本当の意味で新しいものを創るという挑戦は、事業そのものだけでなく、事業を生み出せる組織や仕組みを創ることだと思って。ある意味、自分のキャリアの集大成と言ったら大げさかもしれないですが、次に挑戦するべきはそこだと。シリコンバレーという場所柄、誰かが起業してプロダクトの力で世の中が変えていく様を間近で見ていたこともあり、自分もそこに踏み出そうと思ったんです」


米国での生活も気に入っていたので迷ったが、縁あって長年不動産テックの現場で仕事をさせてもらってきたからには、この経験を日本のマーケットに還元すべきではないかと考えた。


「外から見たとき、日本の不動産業界はまだまだ伸びしろがあると感じました。住みかえの身近さ一つとっても、アメリカと比べるとポテンシャルがある。それまでは、たまたま不動産を題材にビジネスをしているという感覚でしかなかったのですが、日米で貴重な経験を積むなかで、自分は不動産の人間なんだという自覚が生まれてきて。この経験を活かして、日本の不動産をより良くすることが自分の人生のテーマだと思えたので、帰国して起業することにしました」


2021年、株式会社Faciloを創業した。今度は本当に、何もないところから始まった。仲間とともに、不動産領域の未来を見据え、それぞれの思いとアイデアを重ねはじめた。




3章 人の価値


3-1. 頭と足で掴むもの


新卒の頃、リクルートで得た学びは、今も大切にする指針になっていると市川は振り返る。


「現場に触れて、『頭と足』両方を使うことですね。どちらかが欠けてもダメだと思うんです。現場感がないなかで頭でっかちになって、プロダクトアウト的に『こうすべきだ』とするアプローチも良くないですし、逆に自分なりの仮説や分析もないなかで、足で稼げばいいというわけでもない。頭で考える仮説と、足で現場の一次情報に触れること。両方をぐるぐる回していくことが大切だと思っています」


この「頭と足」の往復は、シリコンバレーでも変わらず活きてくるものだった。


当時、新規事業の責任者として300人ほどの不動産エージェントを採用する必要があり、砂漠を車で5時間以上走り、地方都市を回っていた。トップエージェントに会い、一人ひとりを口説いていく。すると、「とりあえず飲もう」という話になってウイスキーを飲み交わしたり、吸ったことのない葉巻を吸いながら一人の人間として向き合う時間があった。事業への思いを語り、現場で心通じ合った信頼関係は、のちに業績を支える要になった。


100人を超える企業の代表という立場になった今も、その姿勢は変わっていない。カスタマーサクセスやセールスの現場レポートを全て読み、問い合わせにも目を通す。ときには自分で返信することもある。営業現場で自らデモを実施し、導入研修の講師を務めることもある。意識しなければ現場から離れてしまう立場だからこそ、意識的に現場へ向かうようにしているという。


「ロジックやデータ分析だけのアウトプットもできなくはないですが、そこに一次情報の厚みが加わることで、概念やコンセプトだけで決めたものより精度の高いアウトプットや仮説が生まれるのは間違いないと思います。分析だけならAIでできてしまう時代において、データ化すらされない空気感やリアリティをキャッチできることにこそ、人間の価値があると思っています」


それはとりわけ、不動産という商材において際立つ。


不動産に正解はない。家を買う、売る、住みかえる。その意思決定の場面で、ユーザーは常に不安と向き合っている。だからこそ、そこに寄り添える人の価値を、Faciloは事業の中心に置きつづけていく。



2026.7.15

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


何もないところから何かを作ることは、地図のない旅に出るようなものだ。既にある正解をなぞる場合と違い、手間も時間もかかる。しかし、だからこそ得られる手触りや、心動かす何かがある。


正解を探すのではなく、現場の感触を拾いに行く。人が集まり、偶発的な発見やアイデアが生まれていくさまを楽しむ。市川氏は、そうして答えを導き出してきた。頭と足を往復させることは、自分なりの道を切り拓くうえで必要な過程なのかもしれない。


「住みかえを軽やかに、人生を鮮やかに。」というFaciloのビジョンは、生き方への問いかけでもありそうだ。環境やライフステージが変われば、住む場所も変えていい。人生に正解はないが、より自分らしい選択肢はきっとあるのだと、市川氏の挑戦は示している。



文・Focus On編集部



▼コラム|2026.7.16 公開予定

私のきっかけ ― オラクル・パーク




株式会社Facilo 市川紘

代表取締役CEO

リクルートに入社後、SUUMOにて営業・プロダクト・経営企画マネージャー・新規事業開発部長として従事。2016年にサンフランシスコに渡り、シリコンバレーの不動産テック企業MovotoのCFOとして勤務。同社をアメリカ第4位の不動産ポータルサイトに成長させ、年間18億円の赤字の状態から黒字化に成功。2020年にはOJO LabsへのM&AによるEXITを実現。この実績を評価され、米国のTop 100 Leaders in Real Estate and Constructionに選出された。2021年に帰国してFaciloを創業。

https://corp.facilo.jp/


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