Focus On
泉恭太
株式会社IZAI  
代表取締役CEO
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or思考を止めない限り、夢に終わりはない。
「眠れる事業資産を、未来のエンジンに。」というミッションを掲げ、日本の産業を支える中堅・中小企業向けに事業を展開していくVALANCE株式会社。同社が開発・提供するAI時代のHeadless SCM(サプライチェーンマネジメント)プラットフォーム「VALANCE」は、会社の中で眠る膨大な書類や証憑など、これまで活用しきれなかったアナログな商流データをAIで即座に構造化し、サプライチェーンの最適化とダイナミックな経営判断を実現する。人間が操作するのではなく、AIが自律的に業務を動かす時代を見据え、新しい基幹システムを構築するサービスだ。
代表取締役の渡邉俊は、アクセンチュア株式会社を経て、フリー株式会社に入社した。Small事業責任者、SMB事業責任者、会計事業責任者、パートナー事業責任者を担い、退任時は専務執行役員CBOを務めるなど、上場後の黒字化を牽引。大学院時代にニューラルネットワークの研究開発に従事した経験から、2025年7月にVALANCE株式会社を創業した。同氏が語る「思考のルーツ」とは。
目次
企業にとって、情報はそれ自体が競争優位性になる。何をどれだけ深く知っているか、新しいことをどれだけ早く知ることができるか。そこに生まれる情報格差は、しばしばビジネスの勝敗を左右してきた。
インターネットの普及で情報へのアクセスは民主化された。しかし収集・分析・活用するためのリソースは、依然として中小より大手企業に有利な構造が続いてきた。近年台頭するAIは、この力学を対等にするどころか、逆転させる力を秘めていると渡邉は語る。
「今、大企業はセキュリティ要件が厳しく、実態としてAIを使いきれていない。一方で、弊社のようなスタートアップや中小企業はそこまで厳しくないので、使おうと思えば十分にAIを活用できる。だから、スモールビジネスの方が情報格差で強くなる。その力学を感じたときに、これから一気に大企業を飛び越える中小企業が多く出てくるだろうと考えたんです」
中小企業こそ、AIを使った方がいい。その確信から生まれたのが、VALANCEだ。
同社が開発・提供するAI駆動型Headless SCM(サプライチェーンマネジメント)プラットフォーム「VALANCE」は、証憑書類やSCMデータをアップロードするだけで、AIが企業専用のSCM基盤を自動構築するサービスだ。
複雑な操作や知識は必要ない。ユーザーは紙の請求書や現場のメモなどをアップロードするだけで、基盤上に基幹データが整理・統合されていく。必要な情報は、社内チャットなど使い慣れたツールで質問すれば呼び出せるので、リアルタイムな経営情報も容易に可視化できるようになる。
さらに特徴的な点として、AIモデルという「頭」と、データ基盤という「胴体」を分けて設計するHeadless(ヘッドレス)なサービスであることが挙げられる。ChatGPTやGeminiのような高性能モデルが「頭」にあたるとすれば、VALANCEが担うのは「胴体」側だ。
「AIモデルの『頭』の世界で戦うのは難しい。だから、現実的に戦える領域はバックエンドのインフラ側だと思っていて。ここを整えることができれば、AIの『頭』の性能をもっと引き出せる。そういう世界が、中小企業にこそあると思っているんです。AIはある程度きちんとした入力データがないと動かない。その入力データを整えることは社会的にも意義があると感じていますし、地味で面倒だからこそ多くの企業が後回しにする。そこに勝てる余白があると考えています」
足元の日本市場に根を張りながら、同社はその延長線上にグローバル展開も見据えている。
「将来的には、世界で戦えるサービス企業になりたいと思っています。AI時代は言語の壁が壊された世界なので、世界中で競争ができるようになってきていますよね。とはいえ、まずは日本の産業をもっと大事にできる付加価値の高いサービスを作り込んでいきたい。その上で、『日本のサービスだから信頼・安心がある』という価値も含めたソフトウェアとして、世界に展開できればと考えています」
中小企業へのAI浸透を加速させ、日本社会の課題が解消されていく。それにより、次の日本をつくるための新しい投資ができるようになる。VALANCEは、そんな未来あるべき社会を描きつつ、その一翼を担おうとしている。

子どもの頃の記憶といえば、ほとんどいつも外にいた。教育熱心な家庭が集まるニュータウンで、勉強に励む同級生を横目に見つつ、自身はいつも自由に外を遊びまわっていたと渡邉は振り返る。
「幼少期から、本能的に『競争』とか『勝負』が好きだったんだろうなと思っていて。たとえば住んでいた団地の中に、自転車で1周走るのにいい感じの公園があって、同年代の子どもたちがみんな自転車の練習をしていたんです。そこでひたすら自転車を漕ぎつづけて、一緒に回っている子どもたちを全員抜こうとしていたという記憶がありますね(笑)」
隣の人には負けたくない。そう本能的に思うからこそ、普段の遊びから勝負事には全力だった。ほかにもサッカーや水泳、陸上など、スポーツ全般で競い合うとなると自然に力が入る。
もしかしたら通っていた幼稚園がスポーツに力を入れていた影響もあるのかもしれない。先生からの叱咤激励があったりと、勝負には真剣に向き合うよう周囲から促される環境があった。
「僕はたまたま運動神経に恵まれていて、何かで1番を取ったり優勝したり目立っていたんですよ。そういう結果を見た父方の祖母からは『お前はできるから負けちゃダメなんだよ』みたいなことは、よく言われていた気がします。祖母は苦しい思いもしてきた世代だと思うので、託したかったものがあったかもしれないですね」

幼少期
さまざまなスポーツに触れてきたが、最も打ち込んだのはサッカーだった。幼稚園の延長保育がきっかけで入ったサッカークラブから始まり、そのまま小学校卒業までクラブの監督には厳しく鍛えられた。
「その先生が地元では指導者として有名な方で、ものすごく怖かったんですよ。負けたら怒られるし、走らされる。恐怖政治の中で必死にもがいて生きてきた分、強くなった。それはそれでいい人生経験だったなとは思います」
当然試合には勝ちたいが、それ以上に負けたときのことを想像するだけで気が重くなる。ただ、勝つことさえできれば怒られないし、走らされることもない。勝って楽をするために、その一心から日々の練習と試合を振り返るようになり、気づけば「考えつづける」ことは日常になっていた。
「厳しい環境の中で、どうすれば相手に勝てるのか、なぜ今日勝てたのか、なぜ点が取れたのかと、そういったことを自分の中でずっと考えつづけていた幼少期だったので、それが今の自分の思考プロセスに活きているんだろうなとは思います。のちにビジネスで人と話していても、『Why』が深いと言われることが多くて、そこは大人になってから気づいた部分でした」
強豪チームには、運動神経に恵まれたチームメイトが集まってくる。当時は試合だけでなく、チーム内でも激しい競争にさらされていた。人よりたくさん練習すれば勝てるほど、単純な世界でもない。それでも本能的に勝ちたいと思うからこそ、常に思考と実践を重ねた。
「チームの中では1番か2番だったのですが、ずっと1番というわけではなく負けるときもあったので、常に争っていました。小学校では全国大会優勝も経験しましたし、それなりに厳しい環境で戦っていたんじゃないかなと思います。全国に出るのは当たり前で、そこでいかに優勝できるかを常に意識していました」
厳しい競争環境下でも、勝つために思考しつづける。サッカーを通じて自然とそれが習慣となり、いつしか人生の土台になっていった。

小学校時代、全国優勝した日
2-2. 組織の中の自分をどう見るか
中学からは浦和レッズのジュニアユースに入り、引き続きサッカー中心の生活を送っていた。しかしそこで待っていたのは、小学校時代とは異なる景色だった。
「推薦を受けて、それなりに鳴り物入りで入ったのですが、当時は周りと比べて体が小さかったんです。物理的に勝てない部分が多かったので、1~2年生のときはレギュラーになれず、なかなか試合に出ることができませんでした。3年になってようやく体が追いついてきて出られるようになったのですが、小学校では絶対的なエースとして頼られる存在だったので、それとは違った経験でした」
なぜ試合に出られないのか、なぜ勝てないのか。考えつづけたが、当時はうまく言語化できずに苦しんでいた。思春期だったことも相まって、気持ちの整理もつかないまま腐っていた時期もある。練習には行かず、友だちとゲームセンターに入り浸り、時間をつぶしていた。
最終的には遊んでいたことが父親にバレ、本気で怒られた。それが、再び真剣にサッカーへと向き合うきっかけになった。
「父親から唯一ものすごく怒られたのはそのときぐらいです。そこで僕をきちんと戻してくれたことには、すごく感謝しています。おそらく小学校ではそれなりにうまくいっていたけれど、環境が変わってうまくいかなくなったとき、客観的に見れば逃げている状態だったので、それが許せなかったのかもしれません」
あのとき踏みとどまったからこそ、中学でも全国ベスト8までを経験できた。高校もサッカーを続けていきたいと思っていたので、受験では地元埼玉で一、二を争う強豪校に推薦で入ることにした。
3学年合わせると、部員は約250人。同世代だけでなく先輩後輩含め、大人になっても関係が続く人もいるほど、仲間に恵まれながら過ごすことができた。

高校時代、サッカー部の試合にて
高校1年からレギュラー争いに加わり、2年目もそれなりに活躍した。プロを目指すことも、十分現実的な選択肢として考えられる。そう思えていたが、3年になった途端、まったく活躍できなくなってしまった。何かを変えたわけでもないのに、結果がついてこなかった。
「今振り返ると、なぜ自分が1~2年生のときは活躍できていたのか、その要因を理解できていなかったんです。当時は自分が上手いからだと思い込んでいましたが、本当は周りの先輩方が僕を活かしてくれていた。その大きな力学やメカニズムを理解しきれていなかった。組織の中で自分が何をしなければならないのかを正しく認知していませんでした。これに気づけたのは大学に入って、ジュニアチームのコーチをするようになってからでした」
のちに大学では、Jリーグ下部組織のジュニア選手に教えるようになり、チームを俯瞰する立場になった。自分の成長ではなく、客観的な視点から他者を成長させることを考えたとき、それが自然と高校時代の経験と重なった。
人のパフォーマンスを左右するのは、必ずしも技術的な要因とは限らない。むしろ組織や周囲の人という変数が大きく影響するものだった。逆に言えば、どんな変数が自分のパフォーマンスに影響するかを分析すれば、成果を出しつづけやすくなる。
「仕事でも、ある組織では活躍するけれど、別の組織では活躍しないということは、よくあると思います。活躍できたとき、なぜ自分が活躍できたのかを謙虚に分析して次に活かせる人と、偶発的な結果に満足して『自分のおかげだ』と思い込み、次の組織では全く活躍できない人がいる。当時の僕は、典型的な後者の例だったと思います。結局高校では最後までそれが分からず、高校3年でサッカーを終わらせて、プロを諦めることにしたんです。それは今でも後悔しています」
結局、その後悔は20代を通じて消えないものだった。ワールドカップで同世代がピッチに立つ姿を目にすると、自分がそこにいた可能性を思わずにはいられず、素直に楽しめなかった。
一過性の勝利ではなく、勝ちつづけるために必要なものは何か。そんな問いを得たのは、サッカーに捧げた青春のおかげでもあった。

サッカーを引退した当時の偏差値は30ほどだったが、父が浪人の後押しをしてくれたこともあり、大学進学を目指すことにした。
「大学はスポーツ科学を学べるところに行きたいと思っていて、筑波・早稲田・順天堂あたりが候補にあったのですが、どこも受験で小論文が必須だったんです。予備校の小論文講座を申し込もうとしたら、コースが3つに分かれていて。『医学部』『SFC・ICUなどの通常の大学』『スポーツ科学部』となっていたのですが、当時はSFCを知らなくて、『埼玉FC』というサッカーチームがあるんだなと思ったぐらいでした(笑)」
調べていくうちに、慶應義塾大学総合政策学部の略であり、何を学ぶかは自分で決められるユニークな学部であると知る。ほかとは違って面白そうだ。そう思えたことから興味を持ち、のちには合格をつかんだ。
入学後は、サッカーサークルと社会人リーグを掛け持ちしつつ、情報工学やコンピュータサイエンスとスポーツを掛け合わせた研究室に入ることにした。そこでは現在、VALANCEのCTOを務めるリンドン・クレイグとの出会いもあった。
「当時留学生だった彼とは、人の動きにセンサーをつけ、定量的にデータを抽出して分析する研究をしていました。どうすれば勝てるか、点が取れるのかを因数分解して、『正しい行動とは何か』を追求する。自分なりにデータ分析のアルゴリズムを考え、ベースとなるニューラルネットワークのプログラミングも自分で作るという経験は、今のAI事業のベースにもなっています」

ほかにも研究室では、大手スポーツウェアメーカーと共同で靴下を開発したりもした。過去、自分自身が怪我に苦しんだ経験があり、「怪我の防ぎやすさ」という観点から着想したものだった。
「靴も大好きでしたが、既に多く存在していたので今さらやっても意味がない。でも、靴下から怪我の予防にアプローチしているものは意外にないなと思い、生意気にも研究室の先生に提案したら『面白い』と。企業から資金もいただけることになったので本格的に取り組むことになったんです。基礎研究をして、モックアップを作り、調整して作り上げていくプロセスは、現在のソフトウェア会社にも活かされています。研究はただ探索的なことをするだけでなく、新しいプロダクトを作ることもできるんだという大きな原体験でした」
探究しがいのあるテーマに取り組めるので、研究は面白かった。なぜそうなるのか、なぜうまくいくのか。目の前にある事象を純粋に不思議に思い、紐解いていく習慣が、自然と研究という営みに重なっていた。
「今でも研究は楽しいです。好奇心から『知る』ことが楽しくて、学校の勉強は嫌いでしたが、自分で探究する勉強は好きなんです。それに、分かるようになるとショートカットできる感覚があります。走るのが嫌いで、いかに楽をするか。強くなりたいけれど、痛い思いはしたくない。どうすれば楽をしてショートカットできるかを、本能的に考えつづけているんだと思います」
広く社会を見ておくためにと就職活動も少ししていたが、修士にはほぼ迷いなく進学した。そのまま博士課程に進む道を選ばなかったのは、経済的に苦しむ先輩研究者たちの姿を目の当たりにしたからだった。
「自分の研究テーマも設備を調達しなければならないものだったので、ビジネスとしてお金を作れる存在にならないと、本当に自分がやりたいことや社会貢献はできないと感じるようになったんです。だから、修士時代は研究もきちんとしつつ、並行してビジネスにも興味を持ってキャッチアップしはじめていました」
社会に意義ある研究でも、現実問題として続けるためにはお金がいる。世の中を変えるようなことを成し遂げるには、研究だけでなくビジネスに目を向ける必要があると考えるようになった。
少しずつビジネスへと軸足を移しつつ、研究で培った視点は手放さない。手段にはこだわらず、むしろそれを拡張することで、世の中を変えることをより深く探究していくことにした。

ビジネスで何をするかより先に、まずはビジネスそのものを知る必要がある。そう考えて、新卒では特定のドメインに縛られず幅広く経験できる環境を求め、アクセンチュアへの就職を選んだ。
「戦略部門の金融ドメインのプロジェクトにアサインされて、ITを使った攻めの施策などいろいろなプロジェクトを経験させていただきました。ただ、最初の半年は地獄でしたね。証券会社のクオンツという金融商品を作る部門がクライアントだったのですが、当初は金融に関する知識が全くなかったので、寝る暇もありませんでした。3か月ほどで慣れてくると『面白いやつだな』と評価をいただけるようになり、仕事が前向きに進むようになりました」
キャリアとしては、大学院卒業時から起業に興味を持っていた。アクセンチュアで約7年ほど働いたのち、今度は事業について学ぶべく、次なるキャリアへ踏み出した。
「コンサルの仕事の本質は調整役なので、自分の成果物が事業につながっているかというと手応えが薄かった。実体のある手触り感のあるビジネスは、実際に起業するか事業会社に行かなければ分からないと考えていて。ちょうどプロジェクトが終わるタイミングと、FinTechというトレンドが重なっていた頃、フリーという会社の存在を知り、純粋に筋がいいなと思ったんです。起業も考えていましたが、一旦あいだを挟むことにしてフリーにジョインしました」

大手企業をクライアントとしていたコンサル時代と比べると、中小企業や個人事業主へ向けてサービスを提供していくことになる。小売、卸、製造、医療、建設など、さまざまな業種のエンドユーザーに対してサービスを売る過程では、世の中をより幅広く見ていくことにもつながった。
同時に、事業をつくり売上を立て、組織をマネジメントしながら大きくするという一連のプロセスも経験し、事業責任者や専務執行役員CBOとして事業の黒字化に貢献していった。
起業のきっかけは、AIという技術的なトレンドを肌で感じたことだった。
「今までは設計から合意形成、完成まで3年かかっていたソフトウェアやアプリケーションも、1日で作ることができたりする。AIの進化によってショートカットできる可能性とインパクトを強く実感したんです。このAI時代に何をすべきなのかと考えていったとき、これはもう自分でやろうという思いに至り、起業することにしました」
データを使ってビジネスや研究をするという自分の中のテーマは、大学院時代から変わっていない。その対象として中小企業が最も筋がいいだろうという思いも、フリーに入った当初から抱いていたものだった。
しかし、そこで単にAIを使ったサービスを作るだけでは、スタートアップではすぐにレッドオーシャン化するだろう。そう考えながら隙間を探してたどりついたアイデアが、現在のVALANCEへとつながっていった。
「僕は多くの人が集まるところに対して、一歩外す思考があります。研究室時代も、みんなは靴を作るから靴下を作ったり、一般的には映像を使うけれど高いのでマイクロセンサーを使ってみたり。レッドオーシャンになるところに対して、一歩外したところで注力すると、人生経験としてうまくいくという原体験がある。だから、その組み合わせによって、今の事業が一番筋がいいだろうと考えたんです」
手法にこだわりはない。ただ、日本の産業を良くしたいという純粋な思いから、ビジネスとして成立し、これまでの経験値も活かせる領域を選んでいった。
2025年7月、VALANCE株式会社を創業。思考は事業の形となり、走り出した。

VALANCE創業メンバーと
プロサッカー選手という夢を、渡邉は後悔とともに振り返る。
「僕は今でも後悔しているのですが、プロサッカー選手になりたいという夢は実現できませんでした。それはなぜかというと、途中で自分を信じられなくなったところがあったんですよね。ただ、ある程度大人になって言語化能力もついてきたときに、正しいか間違っているかは人や考え方の軸次第でいくらでも変わると気づいたんです。だから、これがいいなと思っていることを実現しようと思ったときは、『自分ならできる』という自信を持ちつづけられるかどうかが大切になると思っています」
何事も結果を左右するのは、「最後まで自分を信じられるかどうか」に尽きる。もちろんどこで諦めるかは人それぞれの選択だが、渡邉自身は自分を信じることを一つの信念として持ちつづけているという。
さらに、技術が加速度的に進化する現代においては、夢の実現性そのものが変わりつつある。競争のルールも、挑戦できる回数も、かつての常識は通用しなくなってきた。
「AIなどの技術的進化が急速に進む今、これまで実現できなかったことでもゼロベースで考え直すと『もうできるじゃん』と発見できたりと、ものすごく可能性が広がっている時代だと思います。僕が好きな競争においては、いい意味でも悪い意味でもリセットされました。一度失敗すると再度チャレンジするのは精神的につらいものですが、そういったことにこそ宝が眠っているのではないかとも思います」
渡邉自身、プロサッカー選手になりたいという思いは、今も変わりないという。身体的な限界すら技術が塗り替えていくならば、もう一度プロサッカー選手を目指すチャンスだってあるかもしれない。
夢物語が夢ではなくなる時代が来つつある。そんな風に世界をとらえることもまた、自分を信じつづける力になる。

2026.3.26
文・引田有佳/Focus On編集部
どんな環境に置かれても、思考と探究を手放さない。なぜうまくいったのか、なぜうまくいかなかったのかを問いつづける。その習慣が、次の選択の精度を上げ、独自の道をつくっていく。
強豪チームで勝つために考え、組織の中で自分を謙虚に分析することを覚え、研究とビジネスの間で自分なりの最適解を選び取り、多くが避ける領域に勝ち筋を見出した。渡邉氏のその一貫した軸は、「みんなが集まるところから一歩外す」という経験則になった。
キャリアや生き方に正解がなくなった時代だからこそ、自分の直観を信じ、考えつづける。華やかな成功譚でも、苦労を美化した物語でもない。ただ問いつづけた人間の歩みが、やがて自分だけの勝ち筋になっていく。その可能性は、誰にでも開かれている。
文・Focus On編集部
▼コラム|2026.3.27 公開予定
私のきっかけ ― 『バカの壁』
VALANCE株式会社 渡邉俊
代表取締役CEO
1984年生まれ。埼玉県出身。アクセンチュア株式会社に新卒入社。その後フリー株式会社に入社し、Small事業責任者、SMB事業責任者、会計事業責任者、パートナー事業責任者と幅広く担当し、退任時は専務執行役員CBO。上場後のfreeeの黒字化を牽引。大学院生時に、ニューラルネットワークの研究開発経験から、AI時代の新事業としてVALANCEを創業。